ロマーノフ家人名録

マリーヤ・アレクサンドロヴナ

Мария Александровна, Maria Alexandrovna, Maria Alexandrowna

大公女 великая княжна
エディンバラ公妃 Duchess of Edinburgh (1874-)
ザクセン=コーブルク&ゴータ公妃 Herzogin von Sachsen-Coburg und Gotha (1893-1900)

生:1853.10.05/10.17−ツァールスコエ・セロー
没:1920.10.24(享年67)−ツューリヒ(スイス)

父:皇帝アレクサンドル2世・ニコラーエヴィチ 1818-81
母:皇妃マリーヤ・アレクサンドロヴナ 1824-80 (ヘッセン&ライン大公ルートヴィヒ2世)

結婚:1874−サンクト・ペテルブルグ
  & エディンバラ公アルフレッド 1844-1900 (イギリス女王ヴィクトリア)

子:

生没年結婚結婚相手生没年その親・肩書き身分
アルフレッドと
1アルフレッド1874-99
2メアリ1875-19381893フェルディナンド1世1865-1927ルーマニア王(1914-27)君主
3ヴィクトリア・メリタ1876-19361894エルンスト・ルートヴィヒ1868-1937ヘッセン&ライン大公(1892-1918)ドイツ諸侯
1905キリール・ヴラディーミロヴィチ大公1876-1938ヴラディーミル・アレクサンドロヴィチ大公ロマーノフ家
4アレクサンドラ1878-19421896エルンスト1863-1950ホーエンローエ=ランゲンブルク侯ドイツ貴族
51879
6ベアトリス1884-19661909第5代ガリエラ公アルフォンソ1886-1975(スペイン王家の一族)オルレアン家

皇帝アレクサンドル2世・ニコラーエヴィチの第六子(次女)。
 皇帝アレクサンドル3世・アレクサンドロヴィチの妹。

 母は元来頑健ではなかったが、特に1860年代に入ってからは体調を崩すことが多かった。しばしば南ロシアや西欧で静養したが、これに同行したのがマリーヤ・アレクサンドロヴナ大公女とふたりの弟、セルゲイ・アレクサンドロヴィチ大公パーヴェル・アレクサンドロヴィチ大公であった。4歳下のセルゲイ大公、7歳下のパーヴェル大公の面倒を看たのも母ではなくマリーヤ・アレクサンドロヴナ大公女だったらしい。

 イギリスでは、国民からも義母ヴィクトリア女王からも嫌われた。イギリスは伝統的に反露感情の強い国だったが(ヴィクトリアは英独以外の国をおしなべて嫌っていた)、理由のひとつが称号問題に象徴されるマリーヤ・アレクサンドロヴナ大公女の «傲慢さ» にある。
 夫アルフレッドはエディンバラ公。王子とはいえ、肩書きは一介の貴族のものでしかない。このため父アレクサンドル2世は、娘マリーヤ・アレクサンドロヴナ大公女がイギリスでは Her Imperial Highness と呼ばれ、王太子妃に優先すべきことを主張した。ちなみに王太子妃とは、マリーヤの兄アレクサンドル3世の妃マリーヤ・フョードロヴナの姉アレクサンドラであった。
 マリーヤ・アレクサンドロヴナ大公女は、生まれからすれば Her Imperial Highness だが、結婚により Her Royal Highness となった。ヴィクトリア女王は Her Imperial Highness の使用を認めつつも Her Royal Highness が優先することとし、マリーヤ・アレクサンドロヴナ大公女が王太子妃アレクサンドラに優先することは認めなかった(それでもほかのプリンセスに対する優先権は認めた)。

 ロンドンでは、クラレンス・ハウスが居館となった。

 1893年、ザクセン=コーブルク&ゴータ公エルンスト2世が死去。エルンスト2世に子がなかったため、その弟アルベルト(プリンス・アルバート)の子であるイギリス王太子アルバートが継承法からすると跡継ぎとなるべきであったが、イギリス王位を継承する身であることから継承権を放棄。次弟であるアルフレッドが代わってザクセン=コーブルク&ゴータ公位を継いだ。
 ザクセン=コーブルク&ゴータ公位は、爵位からすればエディンバラ公位と同じであったが、国際的には主権国家の君主として認められていた(現実にはドイツ帝国に併合された形であったが)。こうして主権国家の君主の妃となったマリーヤ・アレクサンドロヴナ大公女は、晴れて王太子妃アレクサンドラに優先する身となった。
 以後、マリーヤ・アレクサンドロヴナ大公女は家族とともにコーブルクに居住。

 1899年、唯一の男子であった長男アルフレッドが、スキャンダルに絡んで自殺。1900年に夫が死んだ時、ザクセン=コーブルク&ゴータ公位は、アルフレッドの次弟コノート公アーサーが公位継承権を放棄していたため、末弟の子であるオールバニー公チャールズ・エドワードにわたった(ドイツ語カール・エドゥアルト)。マリーヤ・アレクサンドロヴナ大公女は «前の公妃» となった。その後もコーブルクに居住し続けた。

 第一次世界大戦末期のドイツ革命を避けてスイスに逃亡。ここで死んだ。コーブルクに葬られている。

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