ロマーノフ家人名録

マルファ・アレクセーエヴナ

Марфа Алексеевна

ツァレーヴナ царевна

生:1652.08.26/09.05−モスクワ
没:1707.06.19/06.30(享年54)−モスクワ

父:ツァーリ・アレクセイ・ミハイロヴィチ 1629-76
母:ツァリーツァ・マリーヤ・イリイーニチナ 1625-69 (イリヤー・ダニーロヴィチ・ミロスラーフスキイ)

結婚:なし

子:なし

ツァーリ・アレクセイ・ミハイロヴィチの第三子(次女)。
 ツァーリ・フョードル3世・アレクセーエヴィチイヴァン5世・アレクセーエヴィチの同母姉で、皇帝ピョートル1世・アレクセーエヴィチの異母姉。

 当時のロマーノフ家の女性たちはテレムノーイ宮殿の奥深くで生涯を送り、表舞台には現れないのが一般的だった。マルファ・アレクセーエヴナもそういう意味ではほかの女性たちと同じであったが、妹ソフィヤ・アレクセーエヴナと仲が良かったことが彼女の人生に大きな影響を与えた。
 1682年にソフィヤ・アレクセーエヴナが権力を掌握すると、マルファ・アレクセーエヴナは物質的な支援をはじめさまざまな恩恵を受けた。
 1689年にソフィヤ・アレクセーエヴナが権力を追われ、ノヴォデーヴィチイ修道院に幽閉された後も、連絡を取り続ける。その一方で、代わって権力を握ったピョートル1世の西欧化路線には反対していた。
 1698年、ピョートル1世が西欧旅行に出ている隙をついて銃兵がソフィヤ・アレクセーエヴナを旗印として叛乱を起こした際には、マルファ・アレクセーエヴナもこれを支持。叛乱は鎮圧され、帰国したピョートル1世により、マルファ・アレクセーエヴナはモスクワ郊外のウスペンスキイ修道院に入れられ、強制的に修道女にさせられた(修道名マルガリータ)。

 修道院には、妹のマリーヤ・アレクセーエヴナフェオドーシヤ・アレクセーエヴナがしばしば訪ねてきた。
 マルファ・アレクセーエヴナはまたツァレーヴィチ・アレクセイ・ペトローヴィチとも緊密なつながりを保った。マルファ・アレクセーエヴナもアレクセイ・ペトローヴィチも保守的な気質で、ピョートル大帝の改革に真っ向から反対していたので、気が合ったのかもしれない。

 ウスペンスキイ修道院に埋葬された。

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