ロマーノフ家人名録

クセーニヤ・イヴァーノヴナ・シェストーヴァ/マルファ

Ксения Ивановна Шестова / Марфа

ボヤールィニャ боярыня (1586?-)

生:?
没:1631.01.26/02.05(享年?)−モスクワ

父:イヴァン・ヴァシーリエヴィチ・シェストーフ
母:?

結婚:1585?
  & フョードル・ニキーティチ・ロマーノフ -1633

子:

生没年結婚結婚相手生没年その親・肩書き身分
フョードル・ニキーティチと
1タティヤーナ-1611イヴァン公-1641ミハイール・ペトローヴィチ・カトィレフ=ロストーフスキイ公リューリコヴィチ
2ボリース-1592
3ニキータ-1592
4レフ-1597
5イヴァン-1599
6ミハイール(ツァーリ)1596-16451624マリーヤ公女-1626ヴラディーミル・ティモフェーエヴィチ・ドルゴルーキイ公リューリコヴィチ
1626エヴドキーヤ1608-45ルキヤーン・ステパーノヴィチ・ストレーシュネフモジャイスクの貴族

コストロマーの宮廷貴族。正教徒。
 もっとも、その素性も姓も必ずしもはっきりしない。かつてはリューリコヴィチのシャストゥーノフ公家の娘とされることが多かったし、いまでもシーツキイ公家の娘だとする者がいる。イヴァン雷帝の娘だ、とする説まである。
 1585年頃フョードル・ニキーティチと結婚した。つまりは、この頃のフョードル・ニキーティチは、妻がどんな女性か関心を持たれない程度の貴族だった、ということだろう。

 1600年、夫共々ボリース・ゴドゥノーフにより強制的に修道士にさせられる。以後、修道女マルファ инокиня Марфа として知られる。
 1601年、娘タティヤーナ・フョードロヴナ、息子ミハイール・フョードロヴィチとも引き離されてオネガ湖畔に追放された。子供たちは、フョードル・ニキーティチの妹マルファ・ニキーティチナ(ボリース・チェルカースキイ公の妃)に預けられた。
 1606年、偽ドミートリイ1世により釈放され、息子共々おそらく夫が府主教の任命を受けたロストーフに住んだと思われる(娘タティヤーナはすでに結婚していた)。1608年に夫が偽ドミートリイ2世のもとに赴くと、やがて修道女マルファはミハイール・フョードロヴィチを連れてモスクワへ。
 1610年、夫がポーランドの捕虜となり、そのポーランド軍がモスクワを占領。マルファはミハイール・フョードロヴィチを守りながらモスクワにとどまった。
 1612年、第二次国民軍によりモスクワが解放されると、コストロマーの実家に避難した。

 1613年、コストロマーに全国会議の代表を迎えた時には、息子ミハイール・フョードロヴィチの即位に反対した。ボリース・ゴドゥノーフ以来、生涯を全うしたツァーリがひとりもいないのだからそれも無理はあるまい。結局折れて彼女もモスクワへ。
 即位後の息子に対して大きな影響力を振るい(«偉大なる老修道女 великая старица» と呼ばれた)、甥のサルトィコーフ兄弟などがミハイール・フョードロヴィチの側近として政治の実権を握った。とはいえ、修道女マルファ自身は政治には口をはさまなかったようだ。
 1619年に夫が帰国すると、サルトィコーフ兄弟も放逐され、修道女マルファも力を失った。夫との関係が悪かったとも言われている。
 もっとも息子(と嫁)に対する影響力は、その死まで保持し続けた。孫の養育も、嫁を差し置いて修道女マルファが監督した。

 ロマーノフ家代々の墓所ノヴォスパースキイ修道院に葬られている。

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