ロマーノフ家人名録

ヨーゼフ(・アントン)

Josef Anton Johann, Иосиф Антон

大公 Erzherzog

生:1776.02.27/03.09−フィレンツェ(トスカーナ、イタリア)
没:1847.01.01/01.13(享年70)−オフェン(現ブダ、ハンガリー)

父:レーオポルト2世 1747-92 トスカーナ大公(1765-90)&神聖ローマ皇帝(1790-92)
母:マリーア・ルイーサ 1745-92 (スペイン王カルロス3世)

結婚①:1799−ガッチナ
  & アレクサンドラ・パーヴロヴナ大公女 1783-1801 (皇帝パーヴェル・ペトローヴィチ

結婚②:1815−シャウムブルク
  & ヘルミーネ 1797-1817 (アンハルト=ベルンブルク&ホイム候ヴィクトル3世)

結婚③:1819−テック
  & マリー・ドロテーア 1797-1855 (ヴュルテンベルク公ルートヴィヒ)

子:

生没年結婚結婚相手生没年その親・肩書き身分
アレクサンドラと
1アレクサンドリーネ1801
ヘルミーネと
2ヘルミーネ・アマーリエ・マリー1817-42
3シュテファン・ヴィクトル1817-67
マリー・ドロテーアと
4エリーザベト1820-23
5アレクサンダー1825-37
6エリーザベト1831-19031847フェールディナント・カール1821-49オーストリア大公(エステ)ドイツ諸侯
1854カール・フェールディナント1818-74オーストリア大公(テッシェン)ドイツ諸侯
7ヨーゼフ・カール・ルートヴィヒ1833-19051864クロティルデ1846-1927ザクセン=コハーリ公アウグストドイツ諸侯
8マリーア・ヘンリエッテ1836-19021853レーオポルト2世1835-1909ベルギー王(1865-1909)君主

神聖ローマ皇帝レーオポルト2世の第九子(七男)。カトリック。
 マリー・アントワネット(1755-93)の甥。スペイン王フェルナンド7世(1784-1833)、両シチリア王フランチェスコ1世(1777-1830)、フランス王妃マリー・アメリー(1782-1866)の従兄弟。
 神聖ローマ皇帝フランツ2世/オーストリア皇帝フランツ1世(1768-1835)の弟で、ハンガリー系ハプスブルク家の祖となった。次兄はトスカーナ大公フェルディナンド3世(1769-1824)、妹クレメンティア(1777-1801)は両シチリア王フランチェスコ1世の第1妃。

 かれが生まれた頃、父はまだトスカーナ大公。ヨーゼフ・アントンもヴィーンではなく、フィレンツェで生まれ育った。かれが14歳の時、父が皇帝に。ヴィーンに移り住む。

当時のハプスブルク家領は、本領となっているオーストリア(オーストリア大公領、シュタイエルマルク公領、ティロル伯領など)のほかに、ボヘミア(ボヘミア王国、モラヴィア辺境伯領、シュレージエン公領)、ハンガリー(ハンガリー王国、クロアティア王国)、ロンバルディア(ミラノ公領など)、トスカーナ大公領、モデナ公領などがあった。基本的に全領土を皇帝が支配したが、トスカーナとモデナにのみ別途君主が立てられた。

 1792年、父の死で長兄フランツが神聖ローマ皇帝に。
 兄のひとりアレクサンダー・レーオポルトが1790年以来ハンガリー宮中伯として事実上ハンガリー «副王» を務めていたが、1795年に死去。後任としてヨーゼフ・アントンが長兄からハンガリー総督に任じられる(1795-1847)。1796年、ハンガリー議会からハンガリー宮中伯に任じられた(1796-1847)。以後、ハンガリーの首都オフェン(ブダ、現ブダペスト)に住んだ。
 ナポレオン戦争中は3度にわたりハンガリー貴族を率いて反ナポレオン戦争に従軍する(1797、1800、1809)。

ハンガリーは、1526年にハプスブルク家の神聖ローマ皇帝を王に選ぶ。以後、形式上はハンガリーはオーストリアなどと同君連合の状態にあった。しかし三十年戦争を通じてハプスブルク家の支配が強化され、18世紀末以降 «ハンガリー副王» が任命されるようになった。

 ブダを中心に都市建設を精力的におこない、また科学アカデミーや士官学校などの教育学術機関の創設・整備にも尽力した。

 ナポレオン戦争の影響もあって、長兄の皇帝フランツ1世は1812年以来ハンガリー議会を召集せず、ハンガリー貴族と対立していた。これに対してヨーゼフ・アントンは «宮中伯ヨーゼフ Jószef nádor» と呼ばれてハンガリー貴族から好意的に迎えられていた。そのためフランツ1世が1825年にハンガリー議会を召集して改革を推進することが可能になった。
 ハンガリーの近代化改革は、改革志向の中小貴族の支持を得て、封建制度の撤廃を中心に進められた。ヨーゼフ・アントンは急進派を抑えつつ、穏健改革派貴族を政府に結集することに多大な貢献をした。
 この改革はしかしヴェッセレーニュイ・ミクローシュ伯(1796-1850)やコッシュート・ラヨシュ(1802-94)などを疎外し、それが最終的には1848年〜49年の動乱につながることになる。
 ただしヨーゼフ・アントン自身は1840年にヴェッセレーニュイ伯やコッシュートに対する恩赦を認めたりしている。

 ある意味でかれの不幸は、この時代に生まれ生きたことだろう。ナポレオン戦争を通じてハンガリー人の民族意識が高まった時期で、公用語がラテン語からマジャール語に代わったのも19世紀初頭だった。
 そういう意味で、アントン・ヨーゼフは長命ではあったが、この時点で死んで良かったと言うべきだろう。あと1年強長生きしていたら、自身のハンガリー支配が覆されるのをその目で目撃することになったはずだから。

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