ロマーノフ家人名録

イヴァン・イヴァーノヴィチ・シュヴァーロフ

Иван Иванович Шувалов

生:1727.11.01/11.12−モスクワ
没:1797.11.14/11.25(享年70)−サンクト・ペテルブルグ

父:イヴァン・マクシーモヴィチ・シュヴァーロフ -1741
母:タティヤーナ・ロディオーノヴナ・ラティスラーフスカヤ -1756

結婚:なし

愛人:女帝エリザヴェータ・ペトローヴナ 1709-61 (皇帝ピョートル1世・アレクセーエヴィチ

子:なし

コストロマーの弱小貴族。正教徒。
 父イヴァン・マクシーモヴィチは近衛士官を務めた程度。アルハンゲリスク県知事となった伯父イヴァン・マクシーモヴィチの方がまだマシなキャリアを歩んだ。ちなみに父と伯父は兄弟でまったく同じ名前(当時は珍しくなかった)。

シュヴァーロフ家は16世紀後半に出現。その後も冴えなかった。
 従兄弟のアレクサンドル・イヴァーノヴィチ(1710-71)、ピョートル・イヴァーノヴィチ(1711-62)の兄弟がツェサレーヴナ・エリザヴェータ・ペトローヴナに仕えたことから、シュヴァーロフ家の運は大きく開けた。

 モスクワで生まれ育ち、とある教師に教えを受けたが、その時ともに学んだのがアレクサンドル・スヴォーロフ(1730-1800)。

 従兄弟ピョートル・シュヴァーロフ伯の推薦で、1742年、女帝エリザヴェータ・ペトローヴナの小姓となる。
 1751年以降、本格的にエリザヴェータ・ペトローヴナの側近として活躍する。つまりはこの時以降女帝の愛人になったと言われるのだが、真偽のほどは不明。
 しかし従兄弟のピョートル・シュヴァーロフ伯と違って権力欲とは無縁だったようで、肩書きや名誉は(女帝の愛人であったにせよそうでなかったにせよ)目立つほどのものではない(爵位すらもらっていない)。
 また政治にも無関心だったのか、女帝に対する影響力を行使することもあまりなく(ピョートル・シュヴァーロフ伯の道具として働く時を除いて)、そのために宮廷内に敵をあまりつくらなかったらしい。
 そんなかれが唯一女帝の寵臣という立場を利用して大きな影響力を発揮したのが、学芸と芸術の分野だった。

 芸術の愛好家で、学術にも関心が高く、ミハイール・ロモノーソフを庇護。モスクワ大学(1755)、芸術アカデミー(1757)の創設にもかかわり、大学の初代主事、芸術アカデミーの初代総長(1757-63)を務めた。さらにカザニにギムナジヤを開設(1758)。
 自らディドロ、ダランベール、ヴォルテールと交友した。

モスクワ大学の開学を許可する女帝エリザヴェータ・ペトローヴナの勅令は、1755年1月25日付けとなっている。この日は «タティヤーニン・デーニ Татьянин день» と呼ばれ、タティヤーナという名の日となっている(キリスト教会では1年365日それぞれがいずれかの «名前の日» となっている)。イヴァン・シュヴァーロフの母の名の日である。これは偶然ではなく、イヴァン・シュヴァーロフがこの日にしたものだ。以来ロシアではこの日は «学生の日» として全土の大学関係者によって祝われている。

 1761年、エリザヴェータ・ペトローヴナが死去。しばらくは以前からの地位にとどまったものの、イヴァン・シュヴァーロフは最終的に政界から退き、1763年に外国へ。フランス、イタリアで学術・芸術分野の交流を深める。
 1777年に帰国し、女帝エカテリーナ2世に迎えられるが、政治的な活動はしなかった。

 アレクサンドル・ネフスキイ修道院に葬られている。

▲ページのトップにもどる▲

Copyright © Подгорный (Podgornyy). Все права защищены с 7 11 2008 г.

ロシア学事始
ロシアの君主
ロマーノフ家
人名録
系図
人名一覧
inserted by FC2 system