ロマーノフ家人名録

イヴァン・ニコラーエヴィチ・リムスキイ=コールサコフ

Иван Николаевич Римский-Корсаков

生:1754.01.24/02.04
没:1831.02.16/02.28(享年77)−モスクワ

父:ニコライ・ステパーノヴィチ
母:?

愛人:女帝エカテリーナ2世・アレクセーエヴナ 1729-96
愛人:プラスコーヴィヤ・アレクサンドロヴナ 1729-86 (アレクサンドル・イヴァーノヴィチ・ルミャーンツェフ)
                                 ヤーコフ・アレクサンドロヴィチ・ブリュース伯妃

結婚:
  & エカテリーナ・ペトローヴナ公女 1744-1815 (ピョートル・ニキーティチ・トルベツコーイ公)
                                アレクサンドル・セルゲーエヴィチ・ストローガノフ伯妃

子:

生没年結婚結婚相手生没年その親・肩書き身分
エカテリーナ・ストローガノヴァと(姓はラドミールスキイ)
ヴァシーリイ1786-1847
ジナイーダД・М・ゴリーツィン公ゲディミノヴィチ
ソフィヤА・А・アプラークシン伯ロシア貴族

スモレンスクの下級貴族。コールサコフ家の分家。正教徒。
 女帝エカテリーナ2世・アレクセーエヴナの8人目の愛人。

コールサコフ家は、伝承によるとボヘミア出身で14世紀にリトアニアに来たとされる。しかしその次の世代には早くもモスクワ大公に鞍替え。その末裔の一部がフョードル3世の許可を得てリムスキイ=コールサコフを姓とした(リムスキイは «ローマの» の意)。コールサコフ家でもリムスキイ=コールサコフ家でも、特段名を残した人物はいない。唯一の例外がニコライ・アンドレーエヴィチ(1844-1908)。言うまでもなく大作曲家である。もっともイヴァン・ニコラーエヴィチとの関係はほとんどない。

 近衛騎兵出身で、1768年に勃発したポーランドの反露暴動鎮圧に従軍している。
 大尉に昇進したイヴァン・リムスキイ=コールサコフは、グリゴーリイ・ポテョームキン公の知己を得る。当時お払い箱となったセミョーン・ゾーリチの後釜を探していたグリゴーリイ・ポテョームキン公のおめがねに適い、女帝エカテリーナ2世の愛人候補として推挙される。こうしてイヴァン・リムスキイ=コールサコフはエカテリーナ2世の愛人となった。ただしその時期についてははっきりせず、1776年から1778年まで幅がある。

 歌が得意でバイオリンの演奏が素晴らしかったと言われる。
 エカテリーナ2世はかつての愛人グリゴーリイ・オルローフ公に「かれはナイチンゲールのように歌う」と言っている。これに対してグリゴーリイ・オルローフ公は「Это правда, но ведь соловьи поют только до Петрова дня.(確かにその通りだ。しかしナイチンゲールというのはペテロの日=旧暦6月29日までしか歌わないもんだ)」と答えたとか。かつての愛人にいまの愛人自慢をするという神経も信じられないが、そもそも音痴のエカテリーナ2世に歌がうまいとか下手とか判断できたのだろうか。
 しかしグリゴーリイ・ポテョームキン公のおめがねに適った理由というのが、外面の美しさもさることながら無学無能だったことだとも言われるだけに、政治的に何の役割も果たしていない。
 1778年か1779年(これもはっきりしない)、浮気がばれてお払い箱となる。ちなみに浮気の相手はプラスコーヴィヤ・ブリュース伯妃、ピョートル・ルミャーンツェフ=ザドゥナイスキイ元帥の妹。

 その後ストローガノフ伯の妃エカテリーナ・ペトローヴナと恋に堕ちる。エカテリーナ・ペトローヴナはその後ストローガノフ伯と離婚するが、ふたりは言わば内縁関係を続けた。
 1797年、新帝パーヴェル・ペトローヴィチによりサラートフに流されるが、やがてモスクワへ。

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