ロマーノフ家人名録

イリーナ・アレクサンドロヴナ

Ирина Александровна

公女 княжна императорской крови
公妃・伯妃 княгиня, графиня (1914-)

生:1895.07.03/07.15−ガッチナ
没:1970.02.26(享年74)−パリ(フランス)

父:アレクサンドル・ミハイロヴィチ大公 1866-1933 (ミハイール・ニコラーエヴィチ大公
母:クセーニヤ・アレクサンドロヴナ大公女 1875-1960 (皇帝アレクサンドル3世・アレクサンドロヴィチ

結婚:1914−サンクト・ペテルブルグ
  & フェリクス・フェリクソヴィチ公 1887-1967 (フェリクス・フェリクソヴィチ・エリストン=スマローコフ伯)

子:

生没年結婚結婚相手生没年その親・肩書き身分
フェリクス・ユスーポフ公と
1イリーナ1915-831938ニコライ伯1904-79ドミートリイ・セルゲーエヴィチ・シェレメーテフ伯ロシア貴族

ミハイロヴィチ。アレクサンドル・ミハイロヴィチ大公の第一子(長女)。
 皇帝ニコライ2世・アレクサンドロヴィチの姪。

 1914年2月(第一次世界大戦勃発の5ヶ月前)にフェリクス・ユスーポフ公と結婚。これは貴賎結婚であったが、皇帝ニコライ2世の許可を得ている。
 新婚旅行中に戦争勃発の報に接し、帰国途上で一時ベルリンで足止めを食らった。

 フェリクス・ユスーポフ公は結婚前は盛んに浮名を流し、同性愛者の噂もあったが、イリーナ・アレクサンドロヴナ公女との結婚生活はうまく行ったらしい。

 第一次世界大戦ではフェリクス・ユスーポフ公はユスーポフ家 «唯一の男子» として前線への従軍を免れた(貴族にあっては一家中男子がひとりしかいない場合、家系を絶やさぬため従軍を免れた)。代わりにサンクト・ペテルブルグの屋敷の一部を病院として開放。

 1916年、ユスーポフ邸にてラスプーティン暗殺。イリーナ・アレクサンドロヴナ公女はこれには関与していなかったようだが、詳細はよくわかっていない。フェリクス・ユスーポフ公はクールスク県の所領に蟄居を命じられ、イリーナ・アレクサンドロヴナ公女もこれに同行した。

 1917年、二月革命が勃発するとイリーナ・アレクサンドロヴナ公女は、夫や娘と共にクリミアへ。父の所領アイ=トドルに落ち着く。クリミアのロマーノフ一族は一時臨時政府に拘束されたが、イリーナ・アレクサンドロヴナ公女は貴賎結婚に伴い皇位継承権を喪失していたので自由が認められた。
 1919年、ロマーノフ一族とともにユスーポフ公一家も国外に脱出。マルタ、イタリアを経てロンドンへ。最終的にはパリに落ち着いた。

 サント=ジュヌヴィエーヴ=デ=ボワ墓地の夫の傍らに埋葬されている。

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