ゲオルギイ・ミハイロヴィチ・ブラーソフ
Георгий Михайлович Брасов
ブラーソフ伯 граф Брасов
生:1910.07.24/08.06−ウディンカ(モスクワ近郊)
没:1931.07.22(享年20)−オーセール(フランス)
父:ミハイール・アレクサンドロヴィチ大公 1878-1918 (皇帝アレクサンドル3世・アレクサンドロヴィチ)
母:ナターリヤ・セルゲーエヴナ・ブラーソヴァ伯妃 1880-1952 (セルゲイ・シェレメーティエフスキイ)
結婚:なし
子:なし
ミハイール・アレクサンドロヴィチ大公の唯一の子。
皇帝ニコライ2世・アレクサンドロヴィチの甥。
両親の結婚前に生まれた。
ゲオルギイ・ミハイロヴィチの誕生を知った伯父の皇帝ニコライ2世は、両親の結婚は認めようとはしなかった。
«ブラーソフ伯» という称号の由来は文献によって説明がまちまちだが、一説には1910年にニコライ2世が勅令でゲオルギイ・ミハイロヴィチに与えたものだとされる。別の説では1915年に母とともに与えられたものだともされる。
1912年、結婚に際して国外追放となった両親と共に外国で育つ。1915年、帰国。ガッチナに居住。
二月革命後、一家はガッチナで自宅軟禁状態に置かれた。
1918年3月、父がペルミに追放されると、ゲオルギイ・ミハイロヴィチと異父姉ナターリヤ・セルゲーエヴナは家庭教師に連れられコペンハーゲンに脱出し、父方の祖母(皇太后マリーヤ・フョードロヴナ)の実家デンマーク王家に預けられた。
その後国外脱出してきた母と合流し、ロンドンに落ち着く。
ハーローに入学。その後ノルマンディのエコール・デ・ロシュへ。
1928年、祖母マリーヤ・フョードロヴナが死去。当初は «私生児» としてゲオルギイ・ミハイロヴィチを認めようとしなかった祖母も、遺言ではまとまった金額を遺してくれた。
なお、同年、キリール・ヴラディーミロヴィチ大公から母とともに公の称号を与えられた。
自動車事故で死去。パリのパシー墓地に埋葬される。