ロマーノフ家人名録

ゲオルク

Georg August Ernst, Георг

メクレンブルク=シュトレーリツ公 Herzog zu Mecklenburg-Strelitz/герцог Мекленбург-Стрелицкий

生:1824.01.11/01.23
没:1876.06.08/06.20(享年52)−サンクト・ペテルブルグ

父:ゲオルク 1779-1860 メクレンブルク=シュトレーリツ大公(1816-60)
母:マリー 1796-1880 (ヘッセン=ルンペンハイム方伯フリードリヒ)

結婚:1851−サンクト・ペテルブルグ
  & エカテリーナ・ミハイロヴナ大公女 1827-94 (ミハイール・パーヴロヴィチ大公

子:

生没年結婚結婚相手生没年その親・肩書き身分
エカテリーナ・ミハイロヴナと
1ニコラウス・ゲオルク/ニコライ1854
2ヘレーネ・マリーア/エレーナ1857-19361891アルベルト1843-1902ザクセン=アルテンブルク公家の分家ドイツ諸侯
3ゲオルク・アレクサンダー/ゲオルギイ1859-19091890ナターリヤ1858-1921フョードル・ヴォンリャルスキイロシア貴族
4マリー・フリデリーケ/マリーヤ1861
5カール・ミヒャエル/ミハイール1863-1934

ドイツの領邦君主ゲオルクの第四子(次男)。ルター派。
 姉カロリーネ(1821-76)はデンマーク王太子フレデリク(1808-63)の第2妃(フレデリクはのちにデンマーク王となるが、カロリーネはその前に離婚。ちなみにフレデリクは第1妃とも離婚している)。
 ドイツ皇帝ヴィルヘルム1世(1797-1888)、皇妃アレクサンドラ・フョードロヴナ、ハノーファー王ゲオルク5世(1819-78)の従兄弟。

メクレンブルクは1701年に現状固定が定められて以来、カール・レーオポルトフリードリヒ・ルートヴィヒなどのメクレンブルク=シュヴェリーン公領と、メクレンブルク=シュトレーリツ公領とに分割されてきた。両方ともヴィーン会議で大公に格上げしてもらったが、メクレンブルク=シュトレーリツはメクレンブルク=シュヴェリーンに比べて、面積で4分の1以下、人口では5分の1でしかなかった。

 北ドイツの小国の、しかも次男坊であったことから、ドレスデン(ザクセン王国)のギムナジウムに、次いでボン大学に学んだ後は、プロイセン軍に砲兵大尉として勤務した。

 1848年の三月革命を避けてロシアへ。保守主義者で自由主義を嫌ったというのもあったようだが、同時に皇妃アレクサンドラ・フョードロヴナのつてを頼ったのだろう。
 ゲオルクはエカテリーナ・ミハイロヴナ大公女と結婚し、ロシア軍の少将となった(ロシアではゲオルギイ・ゲオルギエヴィチ・メクレンブルグスキイ Георгий Георгиевич Мекленбургский と呼ばれた)。

 ゲオルクはメクレンブルク=シュトレーリツ大公国という独立国の君主の弟であり、ロマーノフ家のプリンセスと結婚してロシア軍の階級をもらったと言っても、ロシア国民(当時は «臣民» と言うべきか)となったわけではない。
 しかし、母国に帰っても «厄介叔父» の立場が待っているだけで、ゲオルクは妻とともにサンクト・ペテルブルグに住んだ。
 サンクト・ペテルブルグのミハイロフスキイ宮殿がゲオルクと妻の新居となったが、もともとここは妻エカテリーナ・ミハイロヴナ大公女の実家であり、その父ミハイール・パーヴロヴィチ大公はすでに亡かったが、母エレーナ・パーヴロヴナ大公妃が健在だった。エレーナ・パーヴロヴナ大公妃はミハイロフスキイ宮殿の女主人であり、ゲオルク夫妻の私事にも口を出したらしい。これに対してゲオルクは、黙って従ったという。

 家庭がこうだったからなのかどうなのか、軍務には熱心だった。すでに1852年には中将に昇進。特に砲術の専門家で、火砲の改良で名を残している。
 一方、宮廷にも顔を出しはしたが、宮廷内の勢力争いなどには超然としていたらしい。

 腎臓を悪くして死去。あるいは義母との同居がこたえたか。

▲ページのトップにもどる▲

Copyright © Подгорный (Podgornyy). Все права защищены с 7 11 2008 г.

ロシア学事始
ロシアの君主
ロマーノフ家
人名録
系図
人名一覧
inserted by FC2 system