ロマーノフ家人名録

フリードリヒ・ヴィルヘルム・ケトラー

Friedrich Wilhelm (von) Kettler, Фридрих Вильгельм

クールラント公 Herzog von Kurland und Semgallen (1698-)

生:1692.07.09/07.19−ミタウ(現イェルガヴァ、ラトヴィア)
没:1711.01.10/01.21(享年18)−キッピンクホーフ

父:フリードリヒ・カジミール 1650-98 クールラント公(1682-98)
母:エリーザベト・ゾフィーア 1674-1748 (ブランデンブルク選帝侯フリードリヒ・ヴィルヘルム)

結婚:1710−サンクト・ペテルブルグ
  & アンナ・イヴァーノヴナ 1693-1740 (ツァーリ・イヴァン5世・アレクセーエヴィチ

子:なし

フリードリヒ・カジミールの第四子(長男)。ルター派。
 祖父である «大選帝侯» にちなんでフリードリヒ・ヴィルヘルムと名付けられた。伯父は初代プロイセン王フリードリヒ1世(1657-1713)。異母姉マリーア・ドロテーア(1684-1743)も大選帝侯の息子に嫁いでおり、クールラント公家は北東ドイツで勢力を拡大しつつあったホーエンツォレルン家に接近していた。

当時のバルト海東岸地域は、ごく大雑把に言って北からエストランド(エストニア北部)、リーヴランド(エストニア南部とラトヴィア北部)、クールランド(ラトヴィア南部)、リトアニア、プロイセンに分けられる。
 もともと13世紀以降リーヴランドとクールランドはリヴォニア騎士団領とリガ司教領とに分割されていた(リヴォニア騎士団は刀剣騎士団とも呼ばれ、一時期はドイツ騎士団と合併している)。これによりドイツ人の植民が進み、特に支配階層はドイツ化した。しかし16世紀には住民はおろか支配階層までもほとんどがルター化し、ローマ教皇直属のリヴォニア騎士団もリガ司教もその存在意義を失った。こうして16世紀半ば、リヴォニア騎士団は解散。最後の騎士団長が、その領土を世俗化してクールラント公となった。これがケトラー家である。ちなみに、同時期に世俗化したドイツ騎士団領がプロイセン。
 クールラント公は、形式上ポーランド王=リトアニア大公の臣下となった。しかし16世紀までにエストランドとリーヴランドを支配したスウェーデンの影響力が強く、17世紀を通じてその影響下に置かれた。

 フリードリヒ・ヴィルヘルムはわずか6歳で父を亡くし、クールラント公位を継承。母后エリーザベトと叔父フェールディナントが摂政となった。

 クールランドは北方戦争でロシアやポーランド=ザクセンと同盟し、スウェーデンに国土を蹂躙された。しかし1709年のポルターヴァの戦いでロシアがスウェーデンを破ると、バルト海沿岸地域からスウェーデンの勢力は一掃され、代わってロシアが支配的な地位を占めることになった。そのため母后もロシアに接近。ロシアの駐在大使ピョートル・ベストゥージェフ=リューミンがミタウ宮廷で大きな影響力を行使するようになった。
 1710年、フリードリヒ・ヴィルヘルムはロシア皇帝ピョートル1世の姪アンナ・イヴァーノヴナと結婚。なお、アンナ・イヴァーノヴナはルター派には改宗せず正教徒にとどまることが認められた(フリードリヒ・ヴィルヘルムの方が立場が弱かったということか)。

 フリードリヒ・ヴィルヘルムは結婚のためサンクト・ペテルブルグを訪問。10月に行われた結婚式をはさんで、数ヶ月にわたりロシア側の歓待を受けた。1711年1月、帰国の途につく。
 しかしクールラントに向かう途上、死去。死因ははっきりしないが、宴会での過度の飲食が原因ではないかとも言われている。外国人がロシア人と宴会をしたらいけない。それともまさかロシア側はフリードリヒ・ヴィルヘルムを殺すつもりで意図的に飲ませたのか?

 結婚に伴いフリードリヒ・ヴィルヘルムは成人したとして、摂政は終了し、公式には親政が開始されていた。ただし実際にはフリードリヒ・ヴィルヘルムは結婚後祖国の土を一度も踏んでおらず、親政しないまま死んだことになる。

 フリードリヒ・ヴィルヘルムにはまだ子がなかったため、叔父フェールディナントがクールラント公位を継ぐはずだったが、当時フェールディナントはポーランド軍に勤務してダンツィヒ(現グダニスク、ポーランド)に居住していた。
 クールラント議会はロシアの圧力でフェールディナントを公として認めず、公は不在のまま。未亡人アンナ・イヴァーノヴナが実権を握った(実際に実権を握ったのはピョートル・ベストゥージェフ=リューミン)。

クールラント公領がポーランド王を主君としていた、というのもあるが、当時は弱小国家の王家の次男坊・三男坊(それどころか君主その人すら)は強国の軍で出稼ぎするのが一般的だった。ゆえにフェールディナントがポーランド軍人となっていても驚くにはあたらない。エカテリーナ2世の父もこの頃、(名目上)独立国家の君主であったにもかかわらず、プロイセン軍人として生活費を稼いでいたのだから。

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