フリードリヒ・ヴィルヘルム
Friedrich Wilhelm Georg Adolf, Фридрих Вильгельм
ヘッセン=ルンペンハイム方伯 Landgraf von Hessen-Rumpenheim (1867-)
生:1820.11.14/11.26−コペンハーゲン(デンマーク)
没:1884.10.02/10.14(享年63)−フランクフルト=アム=マイン(ドイツ)
父:ヴィルヘルム 1787-1867 ヘッセン=ルンペンハイム方伯(1837-67)
母:シャルロッテ 1789-1844 (デンマーク王子フレデリク)
結婚①:1843−サンクト・ペテルブルグ
& アレクサンドラ・ニコラーエヴナ大公女 1825-44 (皇帝ニコライ1世・パーヴロヴィチ)
結婚②:1853−シャルロッテンブルク城
& アンナ・マリーア 1836-1918 (カール《プロイセン王フリードリヒ・ヴィルヘルム3世》)
子:
名 | 生没年 | 結婚 | 結婚相手 | 生没年 | その親・肩書き | 身分 | |
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アレクサンドラ・ニコラーエヴナと | |||||||
1 | ヴィルヘルム | 1844 | − | ||||
アンナ・マリーアと | |||||||
2 | フリードリヒ・ヴィルヘルム | 1854-88 | − | ||||
3 | エリーザベト・シャルロッテ・アレクサンドラ | 1861-1955 | 1884 | レーオポルト | 1855-86 | アンハルト公フリードリヒ1世 | ドイツ諸侯 |
4 | アレクサンダー・フリードリヒ | 1863-1945 | ギゼラ | シュタルハイム男爵 | |||
5 | フリードリヒ・カール(フィンランド王) | 1868-1940 | 1893 | マルガレーテ | 1872-1954 | ドイツ皇帝フリードリヒ3世 | ドイツ諸侯 |
6 | マリー・ポリクセネ | 1872-82 | − | ||||
7 | ジビーレ・マルガレーテ | 1877-1925 | フリードリヒ | 1867-1925 | ヴィンケ男爵 |
ドイツの領邦君主ヴィルヘルムの第三子(長男)。ルター派。
ヘッセン=ルンペンハイム方伯家はヘッセン=カッセル選帝侯家の分家。もともとは独立の領邦君主だったが、ヴィーン会議でその地位は否定され、領土もヘッセン=カッセル選帝侯領に合併されていた。
デンマーク王クリスティアン8世(1839-48)の甥。
クリスティアン8世には子のフレデリクと弟フェールディナントしか男系の係累がおらず、しかもフレデリクにもフェールディナントにも子がなかった。このため、クリスティアンの生存中から将来の王位継承の有力候補にフリードリヒ・ヴィルヘルムも挙げられていた。
デンマークに生まれデンマークで育ったフリードリヒ・ヴィルヘルムは、1837年に大尉としてデンマーク軍人となる。以後、1843年に少将、1851年に中将。
ボン大学に学ぶ(1839-41)。
1843年、皇帝ニコライ1世の次女オリガ・ニコラーエヴナ大公女の花婿候補としてサンクト・ペテルブルグを訪問する。言うまでもなく政略結婚で、ロシアとしてはデンマークとの関係強化を狙ったものだろう。
ところが、フリードリヒ・ヴィルヘルムは姉の代わりに妹アレクサンドラ・ニコラーエヴナ大公女に一目惚れ。
結婚式は1844年1月に行われたが、すでにこの時にはアレクサンドラ・ニコラーエヴナ大公女は結核を患っていた。そのためふたりはそのまま冬宮にとどまる。しかしアレクサンドラ・ニコラーエヴナ大公女は、7月に子供を出産するとそのまま赤子ともどもこの世を去った。
フリードリヒ・ヴィルヘルムはアレクサンドラ・ニコラーエヴナ大公女の葬儀を済ませると、ロシアを去った。
デンマーク王フレデリク7世の治世(1848-63)に、デンマークの国内情勢(新憲法制定)とそれを取りまく国際情勢(第一次スリースウィー戦争)に大きな変化が生じ、結局1852年、列強はシュレスヴィヒ=ホルシュタイン公家のクリスティアンを次期デンマーク王に選んだ。
なお、クリスティアンは姉ルイーゼの夫で、フリードリヒ・ヴィルヘルムにとっては義兄になる(つまり皇妃マリーヤ・フョードロヴナはフリードリヒ・ヴィルヘルムの姪にあたる)。
デンマークの王位継承がなくなったフリードリヒ・ヴィルヘルムは、コペンハーゲンのほかに、所領ルンペンハイム、本家のあるカッセル、妻の実家ベルリンなどを渡り歩く。
1866年、普墺戦争。オーストリア側に立ったヘッセン=カッセル選帝侯領は戦後プロイセンに併合され、最後の選帝侯フリードリヒ・ヴィルヘルム(1802-75)は追放された。方伯フリードリヒ・ヴィルヘルムは妻のツテを頼って、選帝侯フリードリヒ・ヴィルヘルムの帰還を許すようビスマルクに要請するが容れられなかった。
1875年に選帝侯フリードリヒ・ヴィルヘルムが子なくして死ぬと、方伯フリードリヒ・ヴィルヘルムがヘッセン=カッセル家の当主となる(1875-84)。
ちなみに妻のアンナは芸術愛好家で、ヨハネス・ブラームス、クララ・シューマン、アントン・ルビンシュテイン等と親しく付き合った。