ロマーノフ家人名録

フリードリヒ・ルートヴィヒ

Friedrich Ludwig, Фридрих Людвиг

メクレンブルク=シュヴェリーン公・大公の跡取り Erbprinz zu Mecklenburg-Schwerin (1785-)

生:1778.06.02/06.13−ルートヴィヒスルスト(メクレンブルク、ドイツ)
没:1819.11.17/11.29(享年41)−ルートヴィヒスルスト(メクレンブルク、ドイツ)

父:フリードリヒ・フランツ1世 1756-1837 メクレンブルク=シュヴェリーン公(1785-1815)・大公(1815-37)
母:ルイーゼ 1756-1808 (ヨハン・アウグスト・フォン・ザクセン=ゴータ&アルテンブルク)

結婚①:1799−ガッチナ
  & エレーナ・パーヴロヴナ大公女 1784-1803 (皇帝パーヴェル・ペトローヴィチ

愛人:ルイーゼ・シャルロッテ・アーレンス

結婚②:1810−ヴァイマール
  & カロリーナ・ルイーゼ 1786-1816 (ザクセン=ヴァイマール&アイゼナハ大公カール・アウグスト)

結婚③:1818−ホンブルク
  & アウグステ 1776-1871 (ヘッセン=ホンブルク方伯フリードリヒ5世)

子:

生没年結婚結婚相手生没年その親・肩書き身分
エレーナ・パーヴロヴナと
1パウル・フリードリヒ (大公)1800-421822アレクサンドリーネ1803-92プロイセン王フリードリヒ・ヴィルヘルム3世ドイツ諸侯
2マリー・ルイーゼ・フリデリーケ1803-621825ゲオルク1796-1853ザクセン=アルテンブルク公(1848-53)ドイツ諸侯
ルイーゼ・シャルロッテ・アーレンスと(姓はプリュショフ)
フリードリヒ・カール・エドゥアルト1808-
カロリーネ・ルイーゼと
3アルベルト1812-34
4ヘレーネ・ルイーゼ・エリーザベト1814-581837フェルディナン1810-42オルレアン公(フランス王太子)君主
5マグヌス1815-16

ドイツの領邦君主フリードリヒ・フランツ1世の第一子(長男)。ルター派。
 妹シャルロッテ・フリデリーケ(1784-1840)はデンマーク王クリスティアン8世(1786-1848)の妃。

メクレンブルク=シュヴェリーン公領はカール・レーオポルトの後、その弟クリスティアン・ルートヴィヒ(1683-1756)、その子フリードリヒ(1717-85)、その甥フリードリヒ・フランツと、順調に公位が継承されていた。1815年にはヴィーン会議で大公に格上げされている。

 エレーナ・パーヴロヴナ大公女との結婚は政略結婚。革命フランスの膨張に対する懸念、バルト海沿岸諸国に対する影響力拡大という、ロシアとメクレンブルク=シュヴェリーンの双方の思惑が合致した結果だった。
 しかしプライベートでは、フリードリヒ・ルートヴィヒとエレーナ・パーヴロヴナ大公女との関係はうまく行っていたらしい。エレーナ・パーヴロヴナ大公女が死んだ後、すでに世継ぎが生まれていたとはいえ、再婚までに時間がかかったのは、フリードリヒ・ルートヴィヒが死んだ妻を忘れ難く思っていたからだとも言われる。

 エレーナ・パーヴロヴナ大公女の死んだ頃、フリードリヒ・ルートヴィヒは国政に参画するようになり、議会の議長などを務めていた。

 ナポレオンが北ドイツに侵攻すると、父ともども、フリードリヒ・ルートヴィヒは国外に脱出し、しばらくハンブルクなどに暮らす。
 その後サンクト・ペテルブルグに赴き、義兄にあたる皇帝アレクサンドル1世に支援を要請。その口添えもあって、ティルジットの和約の調印された1807年、フリードリヒ・ルートヴィヒは祖国に帰還する。
 ちなみに再婚相手のカロリーナの兄カール・フリードリヒマリーヤ・パーヴロヴナ大公女の夫。ロシアとの関係維持の意図もあったのか?

 メクレンブルク=シュヴェリーンがライン同盟に加えられると、フリードリヒ・ルートヴィヒは主にパリで外交を行う。

 ナポレオンのロシア遠征にもメクレンブルク軍を率いて従軍。
 その失敗後、1813年には今度は逆にアレクサンドル1世に従いロシア軍とともにフランス軍と戦う。

 ヴィーン会議にも父の代理として出席し、大公位の獲得に尽力した。

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