フョードル・ニキーティチ・ロマーノフ/フィラレート
Федор Никитич Романов / Филарет
ボヤーリン боярин (1586?-)
モスクワ総主教 патриарх Московский и всея Руси (1619-)
生:1554?−モスクワ
没:1633.10.01/10.11(享年?)−モスクワ
父:ニキータ・ロマーノヴィチ・ユーリエフ=ザハーリイン -1586
母:エヴドキーヤ公女? (アレクサンドル・ボリーソヴィチ・ゴルバートィイ=シュイスキイ公)
結婚:1585?
& クセーニヤ・イヴァーノヴナ -1631 (イヴァン・ヴァシーリエヴィチ・シェストーフ)
子:
名 | 生没年 | 結婚 | 結婚相手 | 生没年 | その親・肩書き | 身分 | |
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クセーニヤ・イヴァーノヴナと | |||||||
1 | タティヤーナ | -1611 | イヴァン公 | -1641 | ミハイール・ペトローヴィチ・カトィレフ=ロストーフスキイ公 | リューリコヴィチ | |
2 | ボリース | -1592 | − | ||||
3 | ニキータ | -1592 | − | ||||
4 | レフ | -1597 | − | ||||
5 | イヴァン | -1599 | − | ||||
6 | ミハイール(ツァーリ) | 1596-1645 | 1624 | マリーヤ公女 | -1626 | ヴラディーミル・ティモフェーエヴィチ・ドルゴルーキイ公 | リューリコヴィチ |
1626 | エヴドキーヤ | 1608-45 | ルキヤーン・ステパーノヴィチ・ストレーシュネフ | モジャイスクの貴族 |
ニキータ・ロマーノヴィチの長男。
イヴァン雷帝(1530-84)の最初の妃アナスタシーヤ・ロマーノヴナの甥で、ツァーリ・フョードル1世・イヴァーノヴィチ(1557-98)の従兄弟。
父の最初の妻ヴァルヴァーラ・ホヴリナの唯一の子(その直後にヴァルヴァーラが死去)とする史料もあり、ふたり目の妻エヴドキーヤ・ゴルバータヤ=シュイスカヤ公女の子とする史料もあって、はっきりしない。生年もはっきりせず、1552年から54年のいずれかとするものが多い。
この家系で最初にロマーノフを姓とした人物であり、ロマーノフ家という家名もここに依った。
幼時より高い教育を受け、ラテン語、英語を話す。
1586年?の父の死でボヤーリン。以後、プスコーフ総督を務めたり、対スウェーデン戦の軍を率いたり、神聖ローマ皇帝ルードルフ2世との外交交渉に携わったりと、フョードル1世の下で活躍した。
ボヤーリン боярин(複数形 бояре)は、元来は大土地所有者たる貴族一般を指す普通名詞。しかし15世紀頃からこの言葉の使用法が変化し、君主(モスクワ大公、ツァーリ)によって個々の貴族に与えられる一種の «職名» となった。このため、爵位と異なり、父が死んでも自動的に子がボヤーリンになるわけではない。その職掌は、貴族会議に参加して君主に助言を行うこと(もっとも、貴族会議に参加するのはボヤーリンだけではなかったが)。
1598年にフョードル1世が死ぬと、モスクワ系リューリク家が断絶した。後継者候補として、未亡人イリーナ・フョードロヴナなどとともにフョードル・ニキーティチの名も挙がった。結局はツァリーツァ・イリーナの兄であり、フョードル1世治下最大の実力者であったボリース・ゴドゥノーフが後を継いだ。
しかしフョードル・ニキーティチとその弟たちは、ボリース・ゴドゥノーフのような成りあがり者ではなく由緒ある名門貴族で、しかもいまだに人々から敬愛されているイヴァン雷帝最初の妃(フョードル1世の母)アナスタシーヤ・ロマーノヴナの甥でもある。そのため潜在的な脅威としてボリース・ゴドゥノーフに忌避されて、1600年、兄弟はそろって追放された。フョードル・ニキーティチはアルハンゲリスクのアントーニー・シースキイ修道院に追放され、強制的に修道士とされた。修道名フィラレート。そのため、歴史的にはフョードル・ニキーティチという名よりフィラレートの方で知られている。妻クセーニヤ・イヴァーノヴナも修道女にさせられたが(修道名マルファ)、入れられた修道院は別だった。
フィラレートの弟たちは、そろってこの追放を生き延びることができなかった。唯一生還したのがフィラレートと、末弟のイヴァン・ニキーティチだけだった。
1605年、フィラレートは偽ドミートリイ1世により «親族» として釈放され、ロストーフ府主教に任命された。
偽ドミートリイ1世は、イヴァン雷帝の末子を自称しただけに、イヴァン雷帝の最初の妃の甥フィラレートを «親族» として重用。もっとも、実際のドミートリイ・ツァレーヴィチの母はイヴァン雷帝最後の妃マリーヤ・ナガーヤであり、ドミートリイ・ツァレーヴィチとフィラレートとの間に血のつながりはない。
1606年、フィラレートは偽ドミートリイ1世の廃位、それに替えてヴァシーリイ4世・シュイスキイ(1552-1612)の擁立に参画した。しかしヴァシーリイ・シュイスキイがゲルモゲーンをモスクワ総主教に任命すると、フィラレートは反対派にまわり、偽ドミートリイ2世の陣営に走る(拉致されたとも言われる)。
フィラレートは偽ドミートリイ2世によりモスクワ総主教に任命されたが、もちろん、その権限が及ぶのは偽ドミートリイ2世の支配する地域だけに限られていた。
1610年、偽ドミートリイ2世のもとを去り、ヴァシーリイ・シュイスキイ廃位にかかわり、«セミボヤールシチナ» の協力者となる。
セミボヤールシチナ Семибоярщина とは、「7人のボヤーリンの統治」という程度の意味。1610年にヴァシーリイ・シュイスキイを廃位した大貴族たちは、次のツァーリを決めかねて、一時的に自ら統治をおこなった。これは当時モスクワにいたボヤーリンの地位を有する7人の貴族たちから成り、ムスティスラーフスキイ公、トルベツコーイ公、ゴリーツィン公、ヴォロトィンスキイ公、シェレメーテフに加えて、フィラレートの妹婿ルィコフ=オボレーンスキイ公、さらにはフィラレートの弟イヴァン・ニキーティチも名を連ねていた。ちなみに、最初の3人はゲディミノヴィチ、ヴォロトィンスキイ公とルィコフ=オボレーンスキイ公はリューリコヴィチ。
セミボヤールシチナが後継のツァーリにポーランド王太子ヴワディスワフ(1595-1648)を選出するとこれに賛同するが、正教への改宗を条件とした。そのため、ポーランド王ジグムント3世(1566-1632)と交渉するため、ヴァシーリイ・ゴリーツィン公などとともにスモレンスクに赴く。しかしジグムント3世は、ロシア側が要求した、ヴワディスワフがモスクワに自ら赴くこと、正教に改宗することの2点を拒絶。あまつさえ自らツァーリに野心を示し、フィラレート等の使節団を捕らえてポーランドに収監した。フィラレートはその後8年をポーランドで過ごす。
1618年、ロシアとポーランドとの間にデウリノ条約が結ばれ、これにより1619年、フィラレートは釈放されて帰国した。
ツァーリとなっていた息子ミハイール・フョードロヴィチにより、ゲルモゲーンの死後空位となっていたモスクワ総主教に任命され(第3代目)、さらにツァーリの称号である «大君主 Великий государь» を名乗ることを認められて、以後その死まで事実上ロシアの支配者として聖俗両面に君臨した。
歴代のモスクワ総主教は、初代イオーフ(1589-1605)がボリース・ゴドゥノーフ、イグナーティイ(1605-06)が偽ドミートリイ1世、2代ゲルモゲーン(1606-11)がヴァシーリイ・シュイスキイ、再びイグナーティイ(1611-)が占領軍と、いずれも権力者により擁立され、その後もそれぞれの権力者にべったりだったため、ツァーリの代替わりのたびに総主教も交替させられていた。フィラレート自身も «偽ドミートリイ2世の総主教» であったことは上述のとおり。ちなみにイグナーティイは正統な総主教に数えられていない。よってフィラレートだ第3代となる。
権力者としてのフィラレートの事跡についてはミハイール・フョードロヴィチの項を参照のこと。
モスクワのウスペンスキイ大聖堂(シーモノフ修道院?)に葬られている。