エヴドキーヤ・ルキヤーノヴナ・ストレーシュネヴァ
Евдокия Лукьяновна(Лукинична) Стрешнева
ツァリーツァ царица (1626-)
生:1608?
没:1645.08.18/08.28(享年37?)−モスクワ
父:ルキヤーン・ステパーノヴィチ・ストレーシュネフ -1630
母:アンナ・コンスタンティーノヴナ公女 (コンスタンティーン・ロマーノヴィチ・ヴォルコンスキイ公)
結婚:1626−モスクワ
& ツァーリ・ミハイール・フョードロヴィチ 1596-1645
子:
名 | 生没年 | 結婚 | 結婚相手 | 生没年 | その親・肩書き | 身分 | |
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ミハイール・フョードロヴィチと | |||||||
1 | イリーナ | 1627-79 | − | ||||
2 | ペラゲーヤ | 1628-29 | − | ||||
3 | アレクセイ | 1629-76 | 1648 | マリーヤ | 1625-69 | イリヤー・ダニーロヴィチ・ミロスラーフスキイ | モスクワの貴族 |
1671 | ナターリヤ | 1651-94 | キリール・ポリエフクトヴィチ・ナルィシュキン | リャザニの貴族 | |||
4 | アンナ | 1630-92 | − | ||||
5 | マルファ | 1631-32 | − | ||||
6 | イヴァン | 1633-39 | − | ||||
7 | ソフィヤ | 1634-36 | − | ||||
8 | タティヤーナ | 1636-1706 | − | ||||
9 | エヴドキーヤ | 1637 | − | ||||
10 | ヴァシーリイ | 1639 | − |
モジャイスクの小貴族。正教徒。
ツァーリ・ミハイール・フョードロヴィチの2番目の妃。
母である修道女マルファの強い影響下にあったミハイール・フョードロヴィチだが、2番目の妃は自分で選んだとされる。1625年、花嫁コンテストを開いた際、エヴドキーヤ・ストレーシュネヴァは候補ではなく、候補の付き添いでやって来たが、ミハイール・フョードロヴィチが目を留めたのは彼女だったという。修道女マルファは反対したようだが、結局ミハイール・フョードロヴィチが押し切って結婚した。
修道女マルファが選んだ妃ではなかったものの、エヴドキーヤ・ストレーシュネヴァはおそらく強い個性を持った女性ではなかったのだろう、1631年の修道女マルファの死までの5年間、その強い影響下に置かれた。子供たちの養育係もエヴドキーヤ・ストレーシュネヴァやミハイール・フョードロヴィチではなく修道女マルファが決めた。
ただし、結婚に際して総主教フィラレートと修道女マルファはツァリーツァ・アナスタシーヤ・ロマーノヴナにちなんでアナスタシーヤと改名させようとしたが、エヴドキーヤ・ストレーシュネヴァはこれを拒否したと言われている。ただ唯々諾々と人の言うことに従うだけの女性でもなかったということか。もっとも、拒否した理由というのが、アナスタシーヤ・ロマーノヴナにせよマリーヤ・フローポヴァ(アナスタシーヤと改名した)にせよ、その最後は不幸だったから、というもので、単に迷信深かっただけかもしれない。
ちょうど修道女マルファの死後、クレムリンにはテレムノーイ宮殿 Теремной дворец が建てられた。
もともとツァーリの妃や娘たちは、宮殿の中にある私的なスペース(これを «テーレム терем» と呼び、一般の家屋では通常2階にあった)で暮らしていた。女性たちはこのテーレムに «隔離» されており、その意味では大雑把に日本の大奥に相当すると言ってもいいかと思う(ただし大奥と違い男子禁制ではなかった)。
テレムノーイ宮殿では映画『イヴァン雷帝』のロケも行われており、ツァーリの執務室や謁見の間があった。しかし本来の意味は «テーレムの宮殿» ということで、プライベートな生活空間でもあった。これ以降、ロマーノフ家の女性たちはピョートル大帝の時代まで、ときたま教会や修道院に行く以外は生涯のほとんどをテレムノーイ宮殿の中で送ることになる。その先鞭をつけたのがエヴドキーヤ・ストレーシュネヴァであった。
政治にも一切口をはさまず、修道女マルファの死後もそういう意味では目立たない存在で終わった。
手芸が得意で、衣装も自分で飾り付けていた。
ミハイール・フョードロヴィチは、最初に自ら選んだ花嫁(マリーヤ・フローポヴァ)とは引き離され、母に押しつけられた最初の妃とは死別し、続けて不幸を味わっていたが、エヴドキーヤ・ストレーシュネヴァとの結婚生活は幸せなものであったらしい。
夫の死後1ヶ月で後を追うように死んでいる。