エルンスト・ビロン
Ernst Johann (von) Bühren(Biron), Эрнст Бирон
伯 граф (1730-)
伯 Reichsgraf (1731-)
クールラント・セミガリア公 Herzog von Kurland und Semgallen(1737-40、63-69)
生:1690.11.13/11.23−カルンツィェムス(ラトヴィア)
没:1772.12.17/12.28(享年82)−ミタウ(現イェルガヴァ、ラトヴィア)
父:カール・フォン・ビューレン 1653-1735
母:カタリーナ・ヘドヴィヒ・フォン・デア・ラアプ 1663-1740
結婚:1723
& ベニグナ・ゴットリーバ・トロット・フォン・トライデン 1703-82
愛人:女帝アンナ・イヴァーノヴナ 1693-1740 (ツァーリ・イヴァン5世・アレクセーエヴィチ)
子:
名 | 生没年 | 結婚 | 結婚相手 | 生没年 | その親・肩書き | 身分 | |
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ベニグナと | |||||||
1 | ペーター(クールラント公) | 1724-1800 | エヴドキーヤ | -1780 | ボリース・グリゴーリエヴィチ・ユスーポフ公 | ロシア貴族 | |
2 | エリーザベト・ヘドヴィヒ | 1727-97 | 1759 | アレクサンドル | イヴァン・チェルカーソフ | ロシア貴族 | |
3 | カール・エルンスト | 1728-1801 |
父祖代々クールラント公に仕えたドイツ系の貧乏貴族。ルター派。
本来家名はビューレンであったようだ。それが «ビロン» となったについては、エルンストが熱烈な親仏派で、フランスに実在した公位にちなんでビロンと改名したと言われる(さらにのちにビロン公の紋章を流用したとも言われる)。
この話が本当であるとして、当時存命中のビロン公シャルル=アルマン・ド・ゴントー(1663-1756)が、エルンスト・ビロンの所業にどんな反応を示したのかは不明。
なおそのためか、ロシア語では一般的にアクセントの位置を後ろに置いて発音する(ビーロンではなくビローン)。もっとも、外国人の姓なので、どちらが正しいということはない。
プロイセンのケーニヒスベルク大学に学ぶ。退学後サンクト・ペテルブルグで出世の糸口を探すが失敗。
1718年、クールラント宰相カイザーリンクと、駐在ロシア大使ピョートル・ベストゥージェフ=リューミンの引きで、ミタウ宮廷に就職。
その後どういう行きがかりか、ピョートル・ベストゥージェフ=リューミンに対する陰謀に加担し、失脚した。
1724年、カイザーリンクによって復活を果たす。やがて、実質的なクールラント公であったツァレーヴナ・アンナ・イヴァーノヴナの愛人となる。以後、アンナ・イヴァーノヴナに対する絶大な影響力を誇り、徐々に権力をピョートル・ベストゥージェフ=リューミンから奪っていく。
なお、アンナ・イヴァーノヴナの «厩番» だったとよく言われるが、これは事実ではない。
1730年、アンナ・イヴァーノヴナがロシア女帝に即位すると、エルンスト・ビロンもこれにくっついてモスクワへ。政務はドイツ人(主に外交はアンドレイ・オステルマン伯、軍事はブルハルト・ミーニフ伯)に委ね、エルンスト・ビロン自身はあまり容喙しなかった。
しかし後世、ロシア人はアンナ・イヴァーノヴナの治世をビロンにちなんで «ビローノフシチナ бироновщина» と呼ぶ。
ただし、ビロンのロシア政治へのかかわり、ましてやかれの個人的な性格に関しては、あまりに偏向のかかった叙述が多すぎて、まだはっきりしていないと言える。そもそもオステルマンやミーニフとも、ビロンは決して良好な関係にはなかったようだ。とすると、このふたりが活躍をした事実は、ビロンの政治面での影響力がさほど大きくなかったことを物語っているようにも思われる。ベオグラード条約(1739年)の調印に際して、アンナ・イヴァーノヴナがビロンに «その功績に対する褒賞として» 5,000,000ルーブリを贈ったが、ビロンは100,000ルーブリをもらって残りは返還したとされる。それでも大金ではあるが、言われるほど強欲でもなかったのかもしれない。
1737年、ケトラー家最後のクールラント公フェールディナント(1655-1737)が死去。後継のクールラント公が不在の状況になった。
すでに長年クールラントを勢力圏下に置いていたロシアとしては、この状態を維持したかった。そこで、ちょうどクールラント出身者が手近にいた、というわけで、クールラント貴族に圧力をかけ、エルンスト・ビロンをクールラント公に選出させた。クールラント公の主君であるポーランド王アウグスト3世/ザクセン選帝侯フリードリヒ・アウグスト2世(1696-1763)はロシアによって擁立されていた関係上、これに異議を唱えることはしなかった。
ちなみに、エルンスト・ビロン自身がクールラント公位にどの程度の野心を抱いていたかはよくわからん。エルンスト・ビロンはミタウに自ら赴くことなく、駐在ロシア大使や宰相が相変わらずクールラントを実効支配した。
エルンスト・ビロンとしては、やはり片々たるクールラントなぞよりも、ロシア皇位の方に野心が動いただろう。1739年、ロシア皇位をビロン家のものとするため、長男ピョートル・エルンストヴィチを、女帝アンナ・イヴァーノヴナの筆頭後継者であるアンナ・レオポリドヴナと結婚させようと画策したりもしている。
1740年、アンナ・イヴァーノヴナが死去。その遺命により、後継の皇帝にはアンナ・レオポリドヴナの子イヴァン6世が即位し、エルンスト・ビロンが摂政とされた。
しかしわずか1ヶ月後に、反ビロン派(ブルハルト・ミーニフ伯)により逮捕され、シベリアに流刑された。
ちなみに、これによりクールラント公位は空位となった。
1742年、女帝エリザヴェータ・ペトローヴナにより、ヤロスラーヴリへ移される。多少は刑が軽減された、というところか。
1762年、即位したばかりの皇帝ピョートル3世により赦され、サンクト・ペテルブルグに帰還する。
すでに1759年、ポーランド王アウグスト3世は次男カール(1733-96)をクールラント公に押し付けていた。エルンスト・ビロンはクールラント公位奪還をピョートル3世に請願するが、叔父のゲオルク・ルートヴィヒ・フォン・シュレスヴィヒ=ホルシュタイン公をクールラント公にしようと考えていたピョートル3世は、これを却下。
しかしエルンスト・ビロンが赦免された1762年のうちに、クーデタで今度はエカテリーナ2世が即位。1763年にポーランド王アウグスト3世が死ぬと、エカテリーナ2世はクールラントに侵攻。カールを追放し、こうしてエルンスト・ビロンはクールラント公に返り咲いた。
ちなみに今回は、サンクト・ペテルブルグに居場所のないエルンスト・ビロンはミタウに赴いている。
エルンスト・ビロンは終生ロシアに忠実で、クールラントは事実上ロシアの属国となった。ロシアに公位を負っているビロンは、ロシア軍の領内通行を認め、正教の信仰と正教会の建設を認め、ロシアに敵対的な国との外交関係を停止した。
これらの措置にクールラント貴族が反発。それもあったのか、1769年、ビロンは長男ペーターに譲位した。
なおクールラントは1795年、第三次ポーランド分割にあわせてロシアに正式に併合された。