ロマーノフ家人名録

エレーナ・ヴラディーミロヴナ

Елена Владимировна, Ελένη Βλαδιμήροβνα ιης Ρωσίας

大公女 великая княжна
ギリシャのプリンセス Πριγκίττισσα της Ελλάδας (1902-)

生:1882.01.17/01.29−ツァールスコエ・セロー
没:1957.03.13(享年75)−アテネ(ギリシャ)

父:ヴラディーミル・アレクサンドロヴィチ大公 1847-1909 (皇帝アレクサンドル2世・ニコラーエヴィチ
母:マリーヤ・パーヴロヴナ大公妃 1854-1920 (メクレンブルク=シュヴェリーン大公フリードリヒ・フランツ2世)

婚約:
  & マクシミリアン 1867-1929 (ヴィルヘルム・フォン・バーデン)

結婚:1902−ツァールスコエ・セロー
  & ニコラオス 1872-1938 (ギリシャ王ゲオルギオス1世 & オリガ・コンスタンティーノヴナ大公女

子:

生没年結婚結婚相手生没年その親・肩書き身分
ニコラオスと
1オルガ1903-971923パヴレ1893-1976ユーゴスラヴィア摂政公君主
2エリサーベト1904-551934カール1900-67テーリンク=イェッテンバハ伯ドイツ貴族
3マリーナ1906-681934ケント公ジョージ1902-42イギリス王ジョージ5世君主

ヴラディーミロヴィチ。ヴラディーミル・アレクサンドロヴィチ大公の第五子(長女)。
 皇帝ニコライ2世・アレクサンドロヴィチの従姉妹。

 幼い頃から激しい性格だったらしい。肖像画のためポーズをとっていた4歳の時のこと、ふとしたことで激怒したエレーナ・ヴラディーミロヴナ大公女はペーパーナイフで乳母に、続いて画家に襲いかかったという。
 長じても、母親の血を継いだのか、尊大で、ひんしゅくを買うこともあったらしい。

 一旦マクシミリアン・フォン・バーデンと婚約するが、一方的に婚約を破棄される。あるいはエレーナ・ヴラディーミロヴナ大公女の性格が災いしたのかもしれない。
 マクシミリアン(マックス)はのちにブラウンシュヴァイク=ヴォルフェンビュッテル公女と結婚したが、エレーナ・ヴラディーミロヴナ大公女に比べて家格や地位はむしろ劣るし、政治的なメリットも小さい(たまたま義弟がその後ドイツ皇帝の娘と結婚)。
 なお、マックスはのちにドイツ帝国最後の宰相となった。

 ニコラオス王子は1900年にプロポーズしたが、母マリーヤ・パーヴロヴナ大公妃がこれに反対したと言われる。その理由は、ニコラオス王子が長男ではないからだとされる。しかしそれは少々おかしい。マクシミリアンとて分家の出で、バーデン大公位継承権は第5位だったのだから。
 いずれにせよ、この結婚は幸福なものであったと言われる。

 第2共和制(1924-35)では、フランスに亡命。ここで亡命ロシア人の活動とかかわりを持つ(長兄キリール・ヴラディーミロヴィチ大公もフランスに亡命していた)。特に亡命ロシア人への慈善活動に積極的に加わった。
 とはいえギリシャもロシアも君主制を棄てて、収入のなくなったエレーナ・ヴラディーミロヴナ大公妃も豊かではなく、夫ニコラオスの絵とエレーナ・ヴラディーミロヴナ大公女の宝石コレクションが主な収入源だった。

 1935年の王政復古を受けて、1936年にギリシャに帰国。

 以前の亡命生活がよほどこたえたのか、第二次世界大戦中は、ギリシャ王家の亡命中(1941-46)もギリシャにとどまった。

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