エカテリーナ・イヴァーノヴナ・ネリードヴァ
Екатерина Ивановна Нелидова
生:1758.12.12/12.23−ドロゴブーシュ郷
没:1839.01.02/01.14(享年80)−サンクト・ペテルブルグ
父:イヴァン・ドミートリエヴィチ・ネリードフ
母:アンナ・アレクサンドロヴナ・シーモノヴァ
愛人:皇帝パーヴェル・ペトローヴィチ 1754-1801
結婚:なし
子:なし
ロシア貴族。正教徒。
父はスモレンスク県のどこにでもいるような地主のひとりだった。
ネリードフ家はリトアニア出身と言われ、クリコーヴォの戦いに従軍して以後モスクワ大公に仕えるようになったとされる。その後オトレーピエフと改姓し、偽ドミートリイ1世の正体とも言われるユーリイ・オトレーピエフも一族。17世紀後半にオトレーピエフからネリードフに姓を戻した。元来歴史に名を残すような家柄でもない。
1765年、エカテリーナ・ネリードヴァは建学されたばかりのスモーリヌィイ学院に入学。1775年、卒業に当たって金メダルをもらった。
在学中から、特にダンスの優雅さでは定評があり、1775年にはエカテリーナ2世直々にドミートリイ・レヴィツキイに彼女がメヌエットを踊っている姿を描かせている。
1776年、皇太子妃ナターリヤ・アレクセーエヴナ大公妃の侍女となる。同年、ナターリヤ・アレクセーエヴナ大公妃が死に、皇太子妃がマリーヤ・フョードロヴナに代わっても、エカテリーナ・ネリードヴァはそのままマリーヤ・フョードロヴナ大公妃付きの侍女として残っている。これはひとつには、マリーヤ・フョードロヴナ大公妃が家具や衣装も含めてナターリヤ・アレクセーエヴナ前大公妃のものを流用したことによるのだろう。
1785年頃に皇太子パーヴェル・ペトローヴィチ大公の愛人となったらしい。もっとも、パーヴェル・ペトローヴィチ大公はふたりの関係がプラトニックなものだと主張し続けた。中世的騎士道精神の理想に取り憑かれていたパーヴェル・ペトローヴィチ大公のことだから、それも事実だったかもしれない(ちなみにロシアには騎士も騎士道も存在しなかった)。
当然当初は皇太子妃マリーヤ・フョードロヴナ大公妃との関係も悪化したが、やがてマリーヤ・フョードロヴナ大公妃が軟化したらしく、ついにはエカテリーナ・ネリードヴァはその信頼も勝ち取った。以後、両者はむしろ協調してパーヴェル・ペトローヴィチ大公を «操縦» していく。マリーヤ・フョードロヴナ大公妃がパーヴェル・ペトローヴィチ大公の怒りを買った時に、エカテリーナ・ネリードヴァがパーヴェル・ペトローヴィチ大公をなだめて取り成してやったりもした。
1796年にパーヴェル・ペトローヴィチ大公が皇帝に即位。いまや皇帝の愛人となったエカテリーナ・ネリードヴァは、政策面にはあまり口出しをしなかったようだが(むしろ皇妃となったマリーヤ・フョードロヴナの影響の方が大きかったように思われる)、人事面での影響力はすさまじく、重要な官職はほぼネリードフ家やエカテリーナ・ネリードヴァの友人、関係者で独占されたと言われる。
少なくともそのように感じた貴族がいたのは事実らしく、このような状況に不満を抱くかれらの策動により、1798年、パーヴェル・ペトローヴィチにアンナ・ロプヒナーが紹介された。パーヴェル・ペトローヴィチは、さっそくこの新しい少女に心変わり(ちなみに、どちらもさほど美人ではなかったらしい)。
失寵したエカテリーナ・ネリードヴァはスモーリヌィイ修道院へ。しかし皇妃マリーヤ・フョードロヴナがアンナ・ロプヒナーを批判してエカテリーナ・ネリードヴァを擁護すると、怒ったパーヴェル・ペトローヴィチはエカテリーナ・ネリードヴァをレーヴェリ(現タリン、エストニア)近郊に追放する。
1801年、パーヴェル・ペトローヴィチの死でスモーリヌィイ修道院に帰還。皇太后となったマリーヤ・フョードロヴナとの友情は変わらず、その後もふたりで教育事業に従事する。
オフティンスコエ墓地に埋葬される。
ちなみに、弟アルカーディイ・イヴァーノヴィチの娘が、ニコライ1世の愛人と言われるヴァルヴァーラ・ネリードヴァ(1814-97)。