エカテリーナ・ミハイロヴナ
Екатерина Михайловна, Ekaterina(Katharina) Michailowna
大公女 великая княжна
メクレンブルク=シュトレーリツ公妃 Prinzessin von Mecklenburg-Strelitz (1851-)
生:1827.08.16/08.28−サンクト・ペテルブルグ
没:1894.04.30/05.12(享年66)−サンクト・ペテルブルグ
父:ミハイール・パーヴロヴィチ大公 1798-1849 (皇帝パーヴェル・ペトローヴィチ)
母:エレーナ・パーヴロヴナ大公妃 1807-73 (ヴュルテンベルク王子パウル)
結婚:1851−サンクト・ペテルブルグ
& ゲオルク・アウグスト 1824-76 (メクレンブルク=シュトレーリツ大公ゲオルク 1779-1860)
子:
名 | 生没年 | 結婚 | 結婚相手 | 生没年 | その親・肩書き | 身分 | |
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ゲオルクと | |||||||
1 | ニコラウス・ゲオルク/ニコライ | 1854 | − | ||||
2 | ヘレーネ・マリーア/エレーナ | 1857-1936 | 1891 | アルベルト | 1843-1902 | ザクセン=アルテンブルク公家の分家 | ドイツ諸侯 |
3 | ゲオルク・アレクサンダー/ゲオルギイ | 1859-1909 | 1890 | ナターリヤ | 1858-1921 | フョードル・ヴォンリャルスキイ | ロシア貴族 |
4 | マリー・フリデリーケ/マリーヤ | 1861 | − | ||||
5 | カール・ミヒャエル/ミハイール | 1863-1934 | − |
ミハイール・パーヴロヴィチ大公の第三子(三女)。
皇帝アレクサンドル2世・ニコラーエヴィチの従姉妹。
五人姉妹の中で、父より長生きした唯一の娘。妹たちはいずれも幼少期に死に、1845年(エカテリーナ・ミハイロヴナ大公女17歳)に次姉エリザヴェータ・ミハイロヴナ大公女が、翌1846年には長姉マリーヤ・ミハイロヴナ大公女が相次いで死去。両親にとっては唯一残された子供となったが、父もまた1849年にこの世を去った。
夫はルター派だったが、エカテリーナ・ミハイロヴナ大公女は正教信仰を保持した。
結婚によりエカテリーナ・ミハイロヴナ大公女はロシアの臣民の地位を失った。しかし夫ゲオルク・アウグストは、メクレンブルク=シュトレーリツ大公の次男だったこともあってか、ロシア軍人となり(ロシアではゲオルギイ・ゲオルギエヴィチと呼ばれた)、エカテリーナ・ミハイロヴナ大公女一家は母エレーナ・パーヴロヴナ大公妃とともにミハイロフスキイ宮殿に住んだ。
夫と母の関係は必ずしもうまくいかなかったようだが(ミハイロフスキイ宮殿では母が主人だった)、エカテリーナ・ミハイロヴナ大公女とゲオルクの夫婦関係は良好だったらしい。
1873年に母を、76年に夫を失った後もミハイロフスキイ宮殿に住んだ。
母にならって、子供や病人のための慈善活動に積極的に取り組む。オラニエンバウムの所領に病気の子供のための施設を建て、各地の医療施設に多額の寄付をし、また医師のための学校を開設している。
女性教育にも熱心で、タシュケントの女子学校にもかかわっている。
保守的で(父もそうだった)厳格な性格であった(母もそうだった)。特に老境に入ると宮廷でもひときわ重きを置かれるようになり、エカテリーナ・ミハイロヴナ大公女自身も重みを強調するかのように古い時代の衣装ばかりをまとっていたりもした。
長男が皇后付きの女官と結婚したいと言い出した時にはこれに反対し、その娘を宮廷から追い出したりもした。もっとも結局は息子に負けており、最終的には嫁に感謝の言葉を残している「Признаю Божие благословение за мою невестку Наталью... Благодарю ее за нежную любовь к сыну моему герцогу Георгу. Да дарует им Господь счастье и благополучие.(嫁ナターリヤは神の祝福である……。我が息子ゲオルク公へのこまやかな愛情に感謝する。主がふたりに幸せと満ち足りた生活を与え給うよう)」。
ペトロパーヴロフスキイ大聖堂に埋葬されている。