ロマーノフ家人名録

エカテリーナ・イヴァーノヴナ

Екатерина Иоанновна, Katharina Iwanowna

ツァレーヴナ царевна
メクレンブルク=シュヴェリーン公妃 Herzogin von Mecklenburg-Schwerin (1716-)

生:1691.10.29/11.08−モスクワ
没:1733.06.14/06.25(享年41)−サンクト・ペテルブルグ(モスクワ?)

父:ツァーリ・イヴァン5世・アレクセーエヴィチ 1666-96
母:ツァリーツァ・プラスコーヴィヤ・フョードロヴナ 1664-1723 (フョードル・ペトローヴィチ・サルトィコーフ)

結婚:1716−ダンツィヒ(現グダニスク、ポーランド)
  & カール・レーオポルト 1678-1747 メクレンブルク=シュヴェリーン公(1713-28)

子:

生没年結婚結婚相手生没年その親・肩書き身分
カール・レーオポルトと
1エリーザベト1718-461739アントン・ウルリヒ1714-74ブラウンシュヴァイク=ヴォルフェンビュッテル公フェールディナント・アルプレヒト2世ドイツ諸侯

ツァーリ・イヴァン5世・アレクセーエヴィチの第三子(三女)。姉ふたりは早世していたので、事実上は長女。
 女帝アンナ・イヴァーノヴナの姉。皇帝ピョートル1世・アレクセーエヴィチの姪。

 父の死後、母や妹たちとともにモスクワ近郊のイズマイロヴォ村に住む。
 叔父ピョートル大帝により、ドイツ人の家庭教師がつけられ、フランス語で教育を受けた。歴史、地理、ダンスなどを学ぶ。おそらく歴代のモスクワ大公、ツァーリの子供たち(男子も含む)の中で、これほど高い教育を受けた者はかつていなかっただろう。これはひとつには、おそらく早くからピョートル大帝に姪たちを政略結婚に使おうとの意図があったためと思われる。残念ながら、エカテリーナ・イヴァーノヴナも妹たちも、さほど勉強に熱心ではなかったらしい。
 1708年、サンクト・ペテルブルグにお引越し。

 1710年、クールラント公との結婚が、エカテリーナ・イヴァーノヴナ等3姉妹に持ち込まれた。この時は母が、愛するエカテリーナ・イヴァーノヴナや末のプラスコーヴィヤ・イヴァーノヴナを外国人なんぞに与えるのを嫌がり、真ん中のアンナ・イヴァーノヴナがクールラント公と結婚することになった。
 しかしその5年後には、またぞろ外国人との結婚話が持ち上がった。相手は北ドイツの小国メクレンブルク=シュヴェリーンの君主。今回はエカテリーナ・イヴァーノヴナに白羽の矢が立った(ちなみにプラスコーヴィヤ・イヴァーノヴナは病弱だったためか、外国人との結婚話は持ち上がっていない)。結婚に際してエカテリーナ・イヴァーノヴナは、正教信仰の保持を認められる。

 なお、ロマーノフとして外国人との王朝結婚はこれが3例目だが、2例目(アレクセイ・ペトローヴィチ & ソフィヤ・シャルロッタ)に続いて、式は国外で挙行された。以降、19世紀末までロマーノフの男子も女子も、結婚式はロシア国内で挙げている。

 この結婚は、文字通りの政略結婚。これをアレンジした叔父ピョートル大帝としては、北方戦争でスウェーデンと戦っているところ、«スウェーデンの湖» バルト海に面したメクレンブルクを味方につけたいとの思いがあった。他方カール・レーオポルトとしては、1648年のヴェストファーレン条約でスウェーデンに奪われた領土を奪回したいと考えていた。その領土ヴィスマールは、当時ロシア軍が占領していた。交渉の末、ヴィスマールはメクレンブルクに返還されることになり、ロシアはバルト海沿岸に商業拠点を獲得した。
 しかしカール・レーオポルトは当時最初の妻(エカテリーナ・イヴァーノヴナは3人目)との離婚訴訟を抱えていた。結局、ピョートル大帝自らが彼女と交渉し、ピョートル大帝が彼女に年金を与えることで離婚を承諾させている(ただしこの合意はカール・レーオポルトとエカテリーナ・イヴァーノヴナの結婚後。それまでは法的には重婚状態にあった)。

 このように双方の思惑が合致し、かつ困難を乗り越えての結婚だったが、夫婦関係の面では失敗だった。
 のみならず政治的にも、カール・レーオポルトは国内諸侯や議会との難しい関係を抱えており、ロシアにとっては必ずしも頼りになる同盟相手とは言えなかった。ついには1717年に神聖ローマ皇帝カール6世によりメクレンブルク=シュヴェリーンを «差し押さえ» られ、ハノーファー選帝侯ゲオルク(イギリス王ジョージ1世)が «管財人» となり、カール・レーオポルトはシュヴェリーンを追われた。
 このようなごたごたに加え、すでに北方戦争の帰趨が見えていたこともあり、ピョートル大帝にとってメクレンブルクとの同盟の重要性は薄れつつあった。

 そもそもエカテリーナ・イヴァーノヴナは、暴君の夫が嫌いであったらしく、ピョートル大帝に帰国を許してくれるよう泣きついた。
 1722年、エカテリーナ・イヴァーノヴナは娘エリーザベトを連れて生まれ故郷のモスクワへ。事実上離婚。法的な手続きは行われていないようだが、現実に以後二度と再び夫と会うことはなかった。翌年、サンクト・ペテルブルグの母のもとへ。

 1730年、従兄弟ピョートル2世の後継者を誰にするか大貴族たちが協議した際にエカテリーナ・イヴァーノヴナの名は出てこない。事実上の独り身という点ではエカテリーナ・イヴァーノヴナも妹のアンナ・イヴァーノヴナも同じであったが、エカテリーナ・イヴァーノヴナは法的にはまだカール・レーオポルトの妻であり、しかもカール・レーオポルトがまだ生きていた、というのが大貴族たちの忌避するところとなったのか?
 ちなみに、カール・レーオポルトは1728年に正式に弟クリスティアン・ルートヴィヒ2世に譲位し、隠居していた。ようするに自由な身であり、こんな厄介者に «女帝の夫» 面で乗り込んでこられても困ると大貴族たちが思ったのかもしれない。
 その後エカテリーナ・イヴァーノヴナは、妹の支配するサンクト・ペテルブルグで娘とふたりつましく暮らしたという。

 サンクト・ペテルブルグのアレクサンドル・ネフスキイ大修道院に埋葬されている。

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