ドミートリイ・ロマーノヴィチ・ロマーノフ
Дмитрий Романович Романов
公 князь
生:1926.05.17−カープ・ダンティーブ(フランス)
没:(存命)
父:ロマーン・ペトローヴィチ公 1896-1978 (ピョートル・ニコラーエヴィチ大公)
母:プラスコーヴィヤ・ドミートリエヴナ 1901-80 (ドミートリイ・セルゲーエヴィチ・シェレメーテフ伯)
結婚①:1959−コペンハーゲン(デンマーク)
& ヨハンナ 1936-89(アクセル・フォン・カウフマン)
結婚②:1993−コストロマー
& ドーリット 1942- (エーリク・レーヴェントロウ)
子:なし
ニコラーエヴィチ。ロマーン・ペトローヴィチ公の第二子(次男)。
両親の結婚は貴賎結婚にあたるため、本来ドミートリイ・ロマーノヴィチは皇族としての権利を持たない。もっともそれを言ったら、ロマーノフの姓を名乗ることも公を称することもできないはず。
幼少期はカープ・ダンティーブの祖父母のもと、純ロシア的環境で育てられた(ユリウス暦を使用していた)。
1935年に大伯母アナスタシーヤ・ニコラーエヴナ大公妃が死ぬと、祖父母の世代で残ったのは祖母ミリツァ・ニコラーエヴナ大公妃だけとなった。このためミリツァ・ニコラーエヴナ大公妃は1936年、家族を連れて、姉のイタリア王妃エレーナを頼ってローマに移住した。
一家はその関係で、ローマではイタリア王族として遇された。
1943年にナチス・ドイツがイタリアを占領すると、ドミートリイ・ロマーノヴィチ公たちはスイスに逃亡。連合軍の勝利とともに、再びイタリアに帰還する。
しかし1947年、イタリアで国民投票が行われて王制が否決されると、イタリア王族とともにエジプトに亡命。ドミートリイ・ロマーノヴィチ公はフォードの修理工をしたりしていた。
1950年代末にデンマークに移住。銀行業に従事し、デンマーク銀行の役員も勤めた(1993年引退)。
なお、二度目の結婚は、ロマーノフとしては革命後最初にロシア国内で挙げた結婚式(ただし相手はこれもデンマーク人)。
祖母がモンテネグロ王女であった関係からバルカン諸国の勲章に造詣が深く、著作が数点あり、この分野における世界的権威と目されている(てか、この分野の権威自体が片手で数えられる程しかいないんじゃ……)。