ロマーノフ家人名録

ドミートリイ・コンスタンティーノヴィチ

Дмитрий Константинович

大公 великий князь

生:1860.06.01/06.13−ストレーリナ
没:1919.01.29(享年58)−ペトロパーヴロフスカヤ要塞

父:コンスタンティーン・ニコラーエヴィチ大公 1827-92 (皇帝ニコライ1世・パーヴロヴィチ
母:アレクサンドラ・イオシフォヴナ大公妃 1830-1911 (ザクセン=アルテンブルク公ヨーゼフ)

結婚:なし

子:なし

コンスタンティーノヴィチ。コンスタンティーン・ニコラーエヴィチ大公の第五子(三男)。
 皇帝アレクサンドル3世・アレクサンドロヴィチの従兄弟。

 1874年、長兄ニコライ・コンスタンティーノヴィチ大公が事件を起こし、国内追放に処された。次兄コンスタンティーン・コンスタンティーノヴィチ大公とドミートリイ・コンスタンティーノヴィチ大公の兄弟は義務感、責任感が強く、礼儀作法もきちんとしていたとされているが、おそらくはこの事件が影響を与えていると思われる。
 生来シャイで、父のように押しが強いわけでもなく、いずれにせよロマーノフ家内で最も愛された大公であっただろう。

 両親の影響か音楽に関心が深く、教会音楽に凝っていた。従兄弟ピョートル・ニコラーエヴィチ大公とは仲がよく(ニコラーエヴィチの所領ズナメンカはコンスタンティーノヴィチの所領ストレーリナの近くにあった)、その妻ミリツァ・ニコラーエヴナ大公妃とは一緒にピアノを弾いていた。

 父にならって海軍に入れられたが、陸軍に鞍替えして父をがっかりさせる。1880年、参謀本部アカデミーを卒業。
 軍人としてのドミートリイ・コンスタンティーノヴィチ大公は有能で、部下の信望も篤かったという。順調に昇進を遂げ、1896年には厩舎総監。1904には陸軍中将。しかしこの頃には視力が衰え、1905年に退役。

 クラースノエ・セローにダーチャを建てたほか、1892年に父が死ぬとストレーリナのコンスタンティーン宮殿を相続した(兄コンスタンティーン・コンスタンティーノヴィチ大公はパーヴロフスクに住んだ)。
 退役後はクリミアで隠棲。かれの趣味は馬で、自ら牧場を開いたほか、競馬協会の会長にもなっている。

 第一次世界大戦が勃発した時にはほぼ盲目に近い状態で、後方で騎兵を訓練するぐらいしかできなかった。

 子がなかったせいか、特に兄コンスタンティーン・コンスタンティーノヴィチ大公の子供たちとの関係は親密で、1915年にコンスタンティーン・コンスタンティーノヴィチ大公が死ぬとドミートリイ・コンスタンティーノヴィチ大公が «第二の父» となっている。

 思想信条的には父と同じくリベラルで、体制批判的ではあったようだが、同じくリベラルで体制批判的だったミハイロヴィチ兄弟と違いそれを口に出すことは稀で、基本的に政治にはかかわらなかった。その辺りが、かれが誰からも好かれた一因であったのかもしれない。
 しかしラスプーティン暗殺の報には、皇族(ドミートリイ・アレクサンドロヴィチ大公フェリクス・ユスーポフ公)がからんだことに激怒した。

 二月革命時にはペトログラードに。姪タティヤーナ・コンスタンティーノヴナ公女一家とともに、副官アレクサンドル・コロチェンツェフ大佐に支えられて生活していた。
 十月革命で権力を掌握したボリシェヴィキーは、当初はロマーノフ家の男子に登録させ、ペトログラードから出ることを禁じるだけで満足していた。しかし1918年春には国内流刑へと方針変更。4月、ドミートリイ・コンスタンティーノヴィチ大公はヴォーログダに追放される。これにもタティヤーナ・コンスタンティーノヴナ公女一家とアレクサンドル・コロチェンツェフが同行した(ただし「同行した」と言っても住む場所は別。拘束されていたのはドミートリイ大公だけなので)。そこで従兄弟のニコライ大公&ゲオルギイ大公のミハイロヴィチ兄弟と一緒になった。
 やがてニコライ2世一家処刑の報が届くと、タティヤーナ・コンスタンティーノヴナ公女は子供たちを連れてペトログラードに戻った(彼女は自由の身だったから)。
 その直後、3大公もペトログラードに戻され、ガヴリイール・コンスタンティーノヴィチ公と共に勾留された。のちにガヴリイール・コンスタンティーノヴィチ公は釈放され、亡命することができたが、残る3大公はペトロパーヴロフスカヤ要塞でパーヴェル・アレクサンドロヴィチ大公ともども処刑された。

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