アンナ・ペトローヴナ
Анна Петровна, Anna Petrowna
ツァレーヴナ царевна (-1721)
ツェサレーヴナ цесаревна (1721-)
ホルシュタイン=ゴットルプ公妃 Herzogin von Schleswig-Holstein-Gottorf (1725-)
生:1708.01.27/02.07−モスクワ(サンクト・ペテルブルグ?)
没:1728.05.04/05.15(享年20)−キール(ホルシュタイン、ドイツ)
父:皇帝ピョートル1世・アレクセーエヴィチ 1672-1725
母:女帝エカテリーナ1世・アレクセーエヴナ 1684-1727 (サムイル・スカヴロンスキ)
結婚:1725−サンクト・ペテルブルグ
& カール・フリードリヒ 1700-39 ホルシュタイン=ゴットルプ公(1702-39)
子:
名 | 生没年 | 結婚 | 結婚相手 | 生没年 | その親・肩書き | 身分 | |
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カール・フリードリヒと | |||||||
1 | カール・ペーター・ウルリヒ(皇帝ピョートル3世) | 1728-62 | 1745 | ゾフィー(女帝エカテリーナ2世) | 1729-96 | アンハルト=ツェルプスト侯クリスティアン・アウグスト | ドイツ諸侯 |
皇帝ピョートル1世とエカテリーナ・アレクセーエヴナとの間の第四子(次女)。
のちの女帝エリザヴェータ・ペトローヴナの姉。
アンナ・ペトローヴナの誕生時には、母はまだ父の単なる愛人にすぎなかった。アンナ・ペトローヴナも私生児。1711年、ツァレーヴナとしてお披露目され、1712年に両親の結婚も公表された。以後、サンクト・ペテルブルグの冬宮に部屋が与えられた。
当初は伝統的な教育が与えられていたが、読書に関心を示し、またフランス語、ドイツ語、イタリア語、スウェーデン語を身につけたと言われる。教養ある女性で、またとても美しかったと言われる。
1718年に異母兄のツァレーヴィチ・アレクセイが死ぬと、孤児となったその子ら(ナターリヤ・アレクセーエヴナ大公女とピョートル・アレクセーエヴィチ大公)は祖父(つまりツァレーヴナ・アンナの父ピョートル大帝)から忘れ去られたが、ツァレーヴナ・アンナが1727年にロシアを離れるまでその面倒を看たと言われる。
1721年、皇帝を自称した父は、ツァレーヴナ・アンナにツェサレーヴナの称号を与えた。
嫡子とはされたものの、結婚前に生まれた子としてその皇位継承権には問題がないわけではなく、そのため結婚相手を見つけるのも苦労したという。しかしすでに1721年には、カール・フリードリヒとの婚約が固まった。
この結婚は、ロシアの後押しを得たいカール・フリードリヒの意向が強く、そのためツェサレーヴナ・アンナが結婚後も正教信仰を維持することが認められた。他方子供は、男子はルター派、女子は正教徒として育てられることが決められた。
さらにこの時、ツェサレーヴナ・アンナは、自身と子孫の皇位継承権を放棄した。しかし秘密条項では、男子が誕生した場合には、ピョートル大帝はその子を後継者とすることができる、と決められた。ツァレーヴィチ・アレクセイ、ピョートル・ペトローヴィチ(エカテリーナ1世との間の子)を相次いで亡くしていたピョートル大帝が、万一を考えたのだろう。この秘密条項があったればこそ、のちに息子がピョートル3世としてロシア皇帝となることができたわけだ。
ピョートル大帝は皇帝が後継者を指名できるという新しい継承法を制定していたが、相次いで男子を失った後、皇位継承者を指名していなかった。1725年、死の床についたピョートル大帝は紙をペンを持ってこさせ、「すべてを与えよ Отдайте все」と書いたところで力尽きた。枕辺にツェサレーヴナ・アンナが呼ばれたが、彼女が駆けつけた時にはすでに昏睡状態に陥っていたという。
このエピソードから、ピョートル大帝はツェサレーヴナ・アンナに皇位を継承させようと考えていたのだ、とする主張もある。
ピョートル大帝死後の1725年5月に、ツェサレーヴナ・アンナは晴れてカール・フリードリヒと結婚した。
結婚後、最高枢密院のメンバーとなった夫と共にサンクト・ペテルブルグに居住。
1727年、母の死で政権が一新されると、夫とともにホルシュタイン=ゴットルプ公領の主都キールへ。しかし夫との関係は冷え切っていたらしい。
ひとり息子の誕生後、風邪をひいてそのまま死去。彼女の遺志により、サンクト・ペテルブルグのペトロパーヴロフスキイ大聖堂に葬られる。