ロマーノフ家人名録

アンナ・モンス

Anna Mons, Анна Ивановна Монс

生:1672・75.01.26/02.05
没:1714.08.15/08.26(享年42?)−モスクワ

父:ヨハン・ゲオルク・モンス
母:マトリョーナ(モデスタ)・モーゲルフライス

愛人:皇帝ピョートル1世・アレクセーエヴィチ 1672-1725

結婚:1711
  & 駐露プロイセン大使ゲオルク・ヨハン・カイゼルリンク -1711

子:

生没年結婚結婚相手生没年その親・肩書き身分
カイゼルリンクと
1
2

素性不詳。ルター派。

 父はオランダ人のワイン商人とも、あるいはドイツ人の金職人とも言われるが、よくわからない。姓もモンスとされるのが一般的だが、異説もある。マトリョーナ(モデスタ)というのも、母ではなく姉だとする説もある(母と姉が同名だったのかもしれない)。
 モスクワ郊外のドイツ人居留地に住んでいた。
 もともとは、同じくドイツ人居留地に住んでいたフランツ・レフォールトの愛人だったと言われる。

 1691年、ピョートル大帝の愛人となる。フランツ・レフォールトの愛人であったとすれば、その屋敷でピョートル大帝と出会ったということだろう。
 ふたりの関係は10年以上続き、この間、1698年にはピョートル大帝はツァリーツァ・エヴドキーヤ・ロプヒナーを修道院に押し込めて離縁している。ピョートル大帝はアンナ・モンスと結婚するつもりだったとも言われる。
 しかしアンナ・モンス自身はと言えば、どうやらピョートル大帝のことを嫌ってはいなかったとしても、特段愛していたというわけではなさそうだ。
 また、政治のことに口を挟むこともなく、ピョートル大帝から幾多の贈り物を受け取ってはいるが、決して地位や名誉に拘泥せず、むしろ平凡な生活を好む女性であったようだ。あるいは自身の出自からしてツァリーツァにはなり得ないことを弁えていた現実的な女性であったとも考えられる。

 1704年頃(正確には不明)、逮捕される。30人に及ぶその関係者も逮捕。おそらく密通が発覚したのだろうと言われている。密通の相手はプロイセン大使カイゼルリンクともザクセン大使ケーニヒゼックとも言われる。
 30になったアンナ・モンスとしては、将来のことを考えてよりふさわしい相手との結婚を考えていたのかもしれない。
 しかしピョートル大帝は激怒。自ら離縁したツァリーツァ・エヴドキーヤ・ロプヒナーに愛人がいたと言って拷問にかけるピョートル大帝のこと、アンナ・モンスに対する怒りも大きかったはずだ。

 ちなみにピョートル大帝にはアンナ・モンス以外にも多数の «愛人» がいたとされる(むしろ一夜限りの相手であったり飲み仲間だったりするようだが)。1703年にはこれにマルタ・スカヴロンスカ、のちの女帝エカテリーナ1世も加わっている。やがてマルタ・スカヴロンスカは特別なお気に入りとなり、1707年にはピョートル大帝は彼女と結婚した。

 あるいはマルタ・スカヴロンスカと結婚したことでピョートル大帝のアンナ・モンスに対する怒り、執着も薄れたのかもしれない。最終的に1711年、ピョートル大帝の許しを得てアンナ・モンスはカイゼルリンクと結婚。しかしその直後、カイゼルリンクはベルリンに赴く途上で死去。
 ただし、カイゼルリンクが結婚したのはアンナの妹だとも言われている。
 なお、伝統的にカイゼルリンクとの間にふたりの子を設けたと言われているが、カイゼルリンクは結婚した年に死んでいる。

 死因は結核。

 なお、アンナ・モンスの弟ヴィルヘルムはのちに、皇妃となったマルタ・スカヴロンスカ(エカテリーナ1世)の側近となる。愛人とも言われたが、不正を働いた罪で1724年にピョートル大帝により処刑された。つくづくピョートル大帝に翻弄された姉弟である。

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