ロマーノフ家人名録

アンナ・フョードロヴナ (ユリアーネ)

Juliane Henriette Ulrike, Анна Федоровна

ザクセン=コーブルク&ザールフェルト公女 Prinzessin von Sachsen-Coburg und Saalfeld
大公妃 великая княгиня (1796-)
ツェサレーヴナ цесаревна (1799-1820)

生:1781.09.12/09.23−エーレンブルク城(コーブルク、ドイツ)
没:1860.08.03/08.15(享年78)−エルフェナウ(ベルン近郊、スイス)

父:フランツ 1750-1806 ザクセン=コーブルク&ザールフェルト公(1800-06)
母:アウグステ・カロリーネ・ゾフィーア 1757-1831 (ロイス=エーベルスドルフ伯ハインリヒ24世)

結婚:1796−サンクト・ペテルブルグ(1820離婚)
  & コンスタンティーン・パーヴロヴィチ大公 1779-1831 (皇帝パーヴェル・ペトローヴィチ

愛人①:ジュール・ガブリエル・エミール・ド・セニュー
愛人②:ルードルフ・アブラハム・フォン・シフェルリ -1837

子:

生没年結婚結婚相手生没年その親・肩書き身分
ジュール・ド・セニューと?(姓はシュミット=レーヴェ)
1エドゥアルト・エドガー1808-1830ベルタ・フォン・シャウエンシュタイン1817-96ザクセン=コーブルク&ゴータ公エルンスト1世
ルードルフ・フォン・シフェルリと(姓はオベール(ドベール))
2ルイーゼ・ヒルダ・アグネス1812-371834ジャン・サミュエル・エドゥアール・ダップル-1887

ドイツの領邦君主フランツの第三子(三女)。ルター派。
 のちに、弟レーオポルト(1790-1865)はベルギー王に、姪ヴィクトリア(1819-1901)はイギリス女王に、甥フェールディナント(1816-85)はポルトガル王(女王の夫として)になっている。

ザクセン=コーブルク&ザールフェルト公家の歴史は複雑である。
 そもそもザクセンとは、現在のニーダーザクセン州、ドイツ北西部を指した。しかし歴代のザクセン公の所領が東に偏っていたため、徐々にザクセンという地名はズレていく。15世紀にザクセン選帝侯となったヴェッティン家の所領は、本来のザクセンにはなく、その東部のスラヴ人居住地にあったため、ここがのちにザクセンと呼ばれるようになった。
 ヴェッティン家は16世紀に分裂。一方はザクセン選帝侯家として現ザクセン州を所領とした。もう一方はかつてのテューリンゲン東部を所領とし、複数の分家に分裂。ザクセン=ヴァイマール公家、ザクセン=アイゼナハ公家、ザクセン=ゴータ公家などで、そのうちのひとつがザクセン=コーブルク&ザールフェルト公家である。分裂に分裂を重ねたために所領は狭小で、歴代の公自身も親族のザクセン選帝侯やハプスブルク家の神聖ローマ皇帝に仕えて生計を立てていた。

 女帝エカテリーナ2世の招聘により1795年、母にともなわれ、姉たちとともにサンクト・ペテルブルグへ。3姉妹のうち、コンスタンティーン・パーヴロヴィチ大公が選んだのがユリアーネだった。ちなみにのちに売れ残った長姉ゾフィーはメンスドルフ伯(ザクセン貴族)の、次姉アントワネッテはヴュルテンベルク公(ドイツ諸侯)の妃に、それぞれ収まっている。
 ふたりの弟エルンスト(のちのザクセン=コーブルク&ゴータ公)とレーオポルト(のちのベルギー王)は、コンスタンティーン・パーヴロヴィチ大公の率いる擲弾兵連隊の大尉に。
 1796年、正教に改宗し、アンナ・フョードロヴナの洗礼名と父称をもらう。
 結婚後はムラーモルヌィイ宮殿に住んだ。

ムラーモルヌィイ宮殿 Мраморный дворец とは、コンスタンティーン・パーヴロヴィチ大公がサンクト・ペテルブルグ市内に建てた私邸。大理石 мрамор がふんだんに使用されていたのでこの名がついた。ちなみに夫の死後、コンスタンティーノヴィチに代々継がれた。

 結婚は最初から失敗だった。コンスタンティーン・パーヴロヴィチ大公は軍務に没頭していたし、またその粗暴な性格も、アンナ・フョードロヴナ大公妃には合わなかった(だいたいコンスタンティーン・パーヴロヴィチ大公自身は結婚を望んでもいなかったのに、祖母に無理やり押しつけられた)。
 そもそもアンナ・フョードロヴナ大公妃にはロシアが合わなかったようだ。ロシア語の習得に手こずり、サンクト・ペテルブルグの宮廷にも慣れなかったらしい。エカテリーナ2世は気に入ったようだが、アンナ・フョードロヴナ大公妃の結婚後すぐに死去。後を継いだパーヴェル・ペトローヴィチを嫌悪し、小姑たちとも必ずしもうまくいったわけではないようで、唯一親しくなったのが、同じ境遇にあった義姉エリザヴェータ・アレクセーエヴナ大公妃だけだった(その夫アレクサンドル・パーヴロヴィチ大公ともいい関係にあったようだが)。
 何より、義母マリーヤ・フョードロヴナとの関係がうまくいかなかった。マリーヤ・フョードロヴナは息子たちに対する影響力を保持しようとしてむしろアンナ・フョードロヴナ大公妃と対立(マリーヤ・フョードロヴナはそもそもの最初からエカテリーナ2世の選んだアンナ・フョードロヴナ大公妃を敵視していた)。レーオポルト(のちのベルギー王)によると、アンナ・フョードロヴナ大公妃の結婚が破綻したのはマリーヤ・フョードロヴナのせいだという。
 1799年、夫がスヴォーロフの遠征軍とともにスイスに遠征したのにあわせてコーブルクに里帰り。実はこの時サンクト・ペテルブルグを逃げ出したのだとも言われる。1800年に夫とともに帰国。これまた親の説得で戻ったのだと言われる。

 1801年、パーヴェル・ペトローヴィチが死んだのを好機と、母の病気を口実に再びコーブルクへ。今度こそ結婚は破綻し、以後、事実上離婚状態。公式には健康状態を理由に国外静養中とされた。
 今回は家族の説得にも耳を貸さず、アンナ・フョードロヴナ大公妃は早速夫に離婚を要求。コンスタンティーン・パーヴロヴィチ大公は自身ほかに愛人がいたこともあり、離婚には否定的ではなかった。ところがこれに皇太后マリーヤ・フョードロヴナが強硬に反対したらしい。不倫は日常茶飯事だったが、離婚は一大スキャンダルだった時代である。ましてコンスタンティーン・パーヴロヴィチ大公が下賤の女性と貴賤結婚をすることも憂慮された。
 もともと彼女に好意的だったというのもあるのか、アレクサンドル1世はこのことで特段彼女の実家ザクセン=コーブルク&ザールフェルト公家との関係を悪くさせたりもしなかったので、アンナ・フョードロヴナ大公妃は今回は実家に落ち着くことができた。

 愛人としたセニューはフランスの下級貴族。かれとの間に産んだ私生児のエドゥアルト・エドガーは、1818年に兄エルンスト1世により貴族とされ、レーヴェンフェルスの姓が与えられた。のち、その私生児と結婚している。

 1810年頃、ベルンに。ここでスイス人医師のシフェルリを愛人とした。1814年には近郊に土地を買い、エルフェナウと名づけて終生ここに住んだ。
 ちょうどこの年、コンスタンティーン・パーヴロヴィチ大公がやり直そうと最後の試みをするが、アンナ・フョードロヴナ大公妃は拒否した。

 1820年、皇帝アレクサンドル1世の勅令により、正式に離婚。公には健康上の理由とされた。そのため、その後も大公妃の称号は認められ、教会の祈りにも彼女の名前は加えられたままだった。

 1830年の息子の、1834年の娘の結婚は、幸薄い彼女にとって数少ない幸せな瞬間だったろう。しかし1830年代は彼女にとって、相次いで大事な存在を失った時代でもある。母(1831)、愛人(1837)、そして結婚したばかりの娘(1837)。78歳まで生きたが、果たして彼女にとっては長寿は幸せだったのかどうか。

 ちなみに、ロシア語は覚えられなかったが、離婚後も正教徒ではあり続けた。

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