アレクセイ・アレクセーエヴィチ
Алексей Алексеевич
ツァレーヴィチ царевич
生:1654.02.15/02.25−モスクワ
没:1670.01.17/01.27(享年15)−モスクワ
父:ツァーリ・アレクセイ・ミハイロヴィチ 1629-76
母:ツァリーツァ・マリーヤ・イリイーニチナ 1625-69 (イリヤー・ダニーロヴィチ・ミロスラーフスキイ)
結婚:なし
子:なし
ツァーリ・アレクセイ・ミハイロヴィチの第四子(次男)。
ツァーリ・フョードル3世・アレクセーエヴィチ、イヴァン5世・アレクセーエヴィチの同母兄、皇帝ピョートル1世・アレクセーエヴィチの異母兄。
兄ドミートリイ・アレクセーエヴィチが生後1年で死んでいた(アレクセイ・アレクセーエヴィチの生まれる前)ため、事実上の長男であったアレクセイ・アレクセーエヴィチは、生まれながらに父の後継者と目されていた。
アレクセイ・アレクセーエヴィチは修道士シメオン・ポーロツキイに養育され、ポーランド語とラテン語を話した。学問好きで、早くから評判が良かったらしい(とはいえ、この辺り多少は差し引いて考えなければならないかもしれない)。
シメオーン・ポーロツキイ(1629-80)はベラルーシ出身。若くして修道士となり、1664年にモスクワへ。アレクセイ・アレクセーエヴィチらの教育係となる。1678年にはクレムリンに最初の印刷所を設け、宗教書だけでなく戯曲や詩も印刷している。総主教ニーコンの始めた宗教改革を支持し、反対派を批判。ソフィヤ・アレクセーエヴナとともにスラヴ=ギリシャ=ラテン・アカデミーを創設。
ちなみに、当時はカトリックのポーランドに支配されていたウクライナやベラルーシの正教会聖職者の中には、独立の正教国家であるロシアに移り住む者が多かった。
当時ポーランド王ヤン2世・カジミェシュ(1609-72)には子がなく、その死後国王選挙が行われることが規定事項であったが、アレクセイ・アレクセーエヴィチはその有力候補に挙げられ、ヤン・カジミェシュの姪との結婚話も持ち上がった。これを推進したのは、父の下でポーランド進出政策を推進したアルタモーン・マトヴェーエフであった。
もっとも、実際に1668年にヤン・カジミェシュが退位した際には、ハプスブルク家の後押しを得たウクライナ貴族ミハウ・ヴィシュニョヴェツキ(1640-73)が王に選ばれた。アレクセイ・アレクセーエヴィチはまだ14歳で、ヤン・カジミェシュの退位が早すぎたかもしれない。
もっとも、ポーランドで正教徒の王が容認されたとは思えない(ルター派のジグムント3世、アウグスト2世はいずれも即位に際してカトリックに改宗している)。ロシアでカトリックのツァーリが許容されなかったのと同じことだ。つまり、ツァーリの跡継ぎたるアレクセイ・アレクセーエヴィチがポーランド王になるというのは、どうにも考えづらく、この話にどの程度現実性があったのか甚だ疑わしい(100年前にイヴァン雷帝がポーランド王選挙に立候補した際には鼻にもかけられなかった)。
ちなみに無関係な話だが、退位したヤン・カジミェシュはパリのサン=ジェルマン=デ=プレ修道院の修道院長となって余生を送った。いまでもそこに眠っている。
ヴィシュニョヴェツキ家(ウクライナ語でヴィシュネヴェツキイ)は、リトアニア大公アルギルダスの子孫を称するウクライナの名家。16世紀にはすでにポーランド化されていて、ウクライナ最大の地主貴族となっている。とはいえミハウが王に選ばれたのは、親仏派と親墺派との対立に疲れた貴族たちが、かつての王家ゆかりの者としてミハウを担いだため。しかしミハウの治世において、親仏派と親墺派の対立は激化する一方だった。
父がモスクワに不在の時には政務を執るようになり、公文書も父ではなくアレクセイ・アレクセーエヴィチの名で発布されたと言う。
しかし16歳の誕生日を目前に急死。クレムリンのアルハンゲリスキイ大聖堂に葬られている。
ちなみに、当時叛乱を起こしていたステンカ・ラージンは、自分の陣中に「実は生きていた」アレクセイ・アレクセーエヴィチがいると主張し、大衆を糾合しようとしている。