ロマーノフ家人名録

アレクサンドラ・ペトローヴナ (アレクサンドラ)

Alexandra Friederike Wilhelmine, Александра Петровна

オルデンブルク公女 Prinzessin von Oldenburg
大公妃 великая княгиня (1856-)

生:1838.05.21/06.02−サンクト・ペテルブルグ
没:1900.04.12/04.25(享年61)−キエフ

父:ペーター 1812-81 (ゲオルク・フォン・オルデンブルク & エカテリーナ・パーヴロヴナ大公女
母:テレーゼ・ヴィルヘルミーネ・フリデリーケ 1815-71 (ナッサウ公ヴィルヘルム)

結婚:1856−サンクト・ペテルブルグ
  & ニコライ・ニコラーエヴィチ大公 1831-91 (皇帝ニコライ1世・パーヴロヴィチ

子:

生没年結婚結婚相手生没年その親・肩書き身分
ニコライ・ニコラーエヴィチ «スタールシイ» 大公と
1ニコライ1856-19291907アナスタシーヤ・ニコラーエヴナ1868-1935モンテネグロ王ニコラ1世君主
2ピョートル1864-19311889ミリツァ・ニコラーエヴナ1866-1951モンテネグロ王ニコラ1世君主

ドイツの領邦君主の末裔ピョートル・ゲオルギエヴィチの第一子(長女)。ルター派。
 父はその母エカテリーナ・パーヴロヴナ大公女のつてでロシア軍に勤務していたが、ルター派信仰は保持。

 1856年、アレクサンドラは正教に改宗し、ニコライ・ニコラーエヴィチ «スタールシイ» 大公と結婚。
 1861年、冬宮からニコラーエフスキイ宮殿に引越し。

 父が種々慈善活動に従事していたこともあり(皇妃マリーヤ・フョードロヴナの創始した慈善官庁を統括していた)、アレクサンドラ・ペトローヴナ大公妃も結婚前から、そして結婚以後も、多くの慈善事業を行う。サンクト・ペテルブルグにポクローフスカヤ看護婦会、病院、医学学校(のち女子ギムナジウムになる)などを創設。父の勤務先に付属する児童施設評議会の議長も務めていた。

 もともとペーター一家が質素だったということもあるのだろうが、アレクサンドラ・ペトローヴナ大公妃は華美を嫌い、社交的でもなく、医学に打ち込んでいた。共通点のないニコライ・ニコラーエヴィチ大公との関係が冷却化していくにつれて、アレクサンドラ・ペトローヴナ大公妃は宮廷から遠ざかり、それがまたニコライ・ニコラーエヴィチ大公を苛立たせる結果となった。

 ニコライ・ニコラーエヴィチ大公は女好きで知られていたが、1860年代半ば頃からエカテリーナ・チスローヴァを愛人とし、公然と付き合いはじめた。
 ニコライ1世の息子たちは、末弟ミハイール・ニコラーエヴィチ大公を除いて女好きで知られ、いずれもちょうど同じ時期に愛人を持って私生児を設け、妻を顧みなくなっている。
 愛人を自宅に住まわせるのはふたりの兄もやっているが、ニコライ・ニコラーエヴィチ大公はそれどころか、アレクサンドラ・ペトローヴナ大公妃に公然と不貞の嫌疑をかけたり、彼女の貴重品を取り上げたり、果てはニコラーエフスキイ宮殿に住むことを禁じたりしている。夫の愛人に居所を奪われたアレクサンドラ・ペトローヴナ大公妃は両親のもとに身を寄せた(ペテルブルグ市内に住んでいた)。
 しかしアレクサンドラ・ペトローヴナ大公妃は義姉ふたりと違い、夫の不貞をじっと耐えたりはせず、ロマーノフ家の家長でもあるアレクサンドル2世に訴えた。しかしアレクサンドル2世は彼女の訴えを取り上げようとせず(当たり前だ。かれ自身が不貞を働いていたのだから)、逆にアレクサンドラ・ペトローヴナ大公妃を「病気の治療のため」と称して国外に追いやってしまった(その費用はアレクサンドル2世が出した)。
 ちなみに子供たちは皇妃マリーヤ・アレクサンドロヴナの場合もアレクサンドラ・ペトローヴナ大公妃の場合も、いずれも母親の側に立っている。

 1881年、アレクサンドル3世が即位。父と違ってニコライ・ニコラーエヴィチ大公に親近感も信頼も抱いていなかったアレクサンドル3世は、ニコライ・ニコラーエヴィチ大公からすべての職務を剥奪。アレクサンドラ・ペトローヴナ大公妃の帰国を赦した。アレクサンドラ大公妃はサンクト・ペテルブルグには戻らず、キエフのマリインスキイ宮殿に。
 1889年、修道女となる(修道名アナスタシーヤ)。看護修道女のためのポクローフスキイ修道院を創設し、貧者のための病院も併設した。
 1891年、夫が死んだ時には葬儀に参列することを拒否。

 胃癌にてキエフのペチェールスカヤ大修道院で死去。サンクト・ペテルブルグのペトロパーヴロフスキイ大聖堂ではなくこの大修道院に埋葬されている。

ペチェールスカヤ大修道院は、通常キエヴォ=ペチェールスカヤ大修道院 Киево-Печерская лавра と呼ばれる。ルーシ最古の修道院で、1051年に創設された。『原初年代記』の作者ネーストルもここの修道士だった。1598年にモスクワ府主教が総主教になると、コンスタンティノープル総主教に直属。1688年、モスクワ総主教直属となり、ロシアで大修道院の地位を初めて与えられた修道院となった。1786年にはキエフ府主教の管轄下に移される。

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