アレクサンドル・ダニーロヴィチ・メーンシコフ
Александр Данилович Меньшиков (Меншиков)
伯 граф (1702-07)
公 светлейший князь (1707-)
元帥 генерал-фельдмаршал (1709-27)
大元帥 генералиссимус (1727)
生:1673.11.06?
没:1729.11.12/11.23(享年56?)−ベリョーゾフ
父:?
母:?
愛人:マルタ・スカヴロンスカ 1684-1727
結婚:
& ダーリヤ・ミハイロヴナ 1682-1728 (ミハイール・アファナーシエヴィチ・アルセーニエフ)
子:
名 | 生没年 | 結婚 | 結婚相手 | 生没年 | その親・肩書き | 身分 | |
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ダーリヤ・アルセーニエヴァと | |||||||
1 | マリーヤ | 1711-29 | − | ||||
2 | アレクサンドラ | 1712-36 | ビロン男爵 | ||||
3 | アレクサンドル | 1714-64 | エリザヴェータ | 1721-64 | ピョートル・ゴリーツィン公 | ロシア貴族 |
素性不詳。正教徒。
父もかれも農奴であったとも言われるし、父はロマーノフ家の馬丁で、アレクサンドル・メーンシコフは幼い頃はピロークを売り歩いていたとも言われる。
正確な素性ははっきりしないものの、貴族の出でないことは確かで、文盲であった。
いかなる縁からかフランツ・レフォールトに見出された。その結果、1686年頃、ドイツ人居留地をうろつきまわり、レフォールトとも親しくなっていた、まだミドルティーンだったピョートル大帝に、アレクサンドル・メーンシコフもまとわりつくようになる。そして «遊戯連隊» に加わって、一緒に戦争ごっこをするようになった。
しかし1689年にピョートル大帝が権力を握った後もそばを離れず、アゾーフ遠征(1695-96)、大使節団(1697-98)にも同行している。
ピョートル大帝の側近には、最高実力者フョードル・ロモダーノフスキイ公以下、フランツ・レフォールト、パトリ−ク・ゴールドン、ヤーコフ・ブリュース、フョードル・アプラークシン、フョードル・ゴロヴィーンなど錚々たる面子が揃っており、それぞれ得意分野でピョートル大帝の改革に貢献していた。
これに対してアレクサンドル・メーンシコフは、特にこれといった得意分野もなく(軍事には秀でていたかもしれない)、また何ら職務を得なかった。にもかかわらず、ピョートル大帝の絶大な信頼を得、その片腕として大きな影響力を振るった。あるいはニキータ・ゾートフやピョートル・ブトゥルリーン同様、酒飲み仲間として最適だったのかもしれない。しかしそれだけにとどまらないことは、この後のかれの昇進ぶりが裏付けている。
1699年にフランツ・レフォールトが死ぬと、側近ナンバーワンの座を確固たるものとした。
1703年、かつてスウェーデン軍に敗れたナルヴァを占領(のち奪還されてはいる)。なお、この時マルタ・スカヴロンスカをボリース・シェレメーテフ伯から金で買ったと言われている。しかしその直後、マルタ・スカヴロンスカはピョートル大帝の愛人となっている。
以後アレクサンドル・メーンシコフは、初代のインゲルマンランディヤ(ペテルブルグ)知事として、サンクト・ペテルブルグやクロンシュタット、ペテルゴーフの建設を指揮する。アレクサンドル・メーンシコフ自身オラニエンバウムを頂戴した。
1708年、ヘトマン・マゼーパの叛乱したウクライナに派遣され、ザポロージエ・コサックの首都バトゥーリンを陥とす。
1709年にはポルターヴァの戦いで中心的な役割を演じ、元帥の称号を与えられる。
さらにポーランド、クールラント、ポンメルンで軍事活動に従事した。
1714年以降、沿バルト地域の統治を委ねられる。さらに軍事参事会議長(1718-27)。ようは軍事大臣。そして1717年にフョードル・ロモダーノフスキイ公が死ぬと、押しも押されぬ最高実力者となった。
1725年、ピョートル大帝が死去。
ピョートル大帝の改革は、ロシア国内に改革派と反改革派の対立を残した。ピョートル大帝の死をきっかけに反改革派は巻き返しを図ったが、アレクサンドル・メーンシコフ公は先手を打って近衛兵を動員。未亡人エカテリーナ・アレクセーエヴナ(かつての «愛人» マルタ・スカヴロンスカ)を後継者とすることに成功した。
エカテリーナ1世の治世では、最高権力を握った。もっとも、かつて愛人関係にあったとしても、この時にはもはやそのような関係にはなく、むしろエカテリーナ1世はアレクサンドル・メーンシコフ公への権力集中を避けるために最高枢密院を創設したとも言われる。それが事実であったとしても、最大の実力者がアレクサンドル・メーンシコフ公であった事実は疑いない。
しかしそれもわずか2年しか続かず、エカテリーナ1世は死去。後継者を巡って改革派と反改革派との対立が再燃した。
権力維持を目論むアレクサンドル・メーンシコフ公は、反改革派と妥協し、自身の娘を娶わせるという条件で反改革派の推すピョートル2世を即位させた。
しかしアレクサンドル・メーンシコフ公を嫌ったピョートル2世により逮捕され、トボーリスク県ベリョーゾフに流刑された。
アレクサンドル・メーンシコフ公の子供たちは1731年に女帝アンナ・イヴァーノヴナにより赦されている。