ロマーノフ家人名録

アレクサンドル・ボリーソヴィチ・ブトゥルリーン

Александр Борисович Бутурлин

陸軍元帥 генерал-фельдмаршал (1756-)
граф (1760-)

生:1694.07.18/07.28−モスクワ
没:1767.08.30/09.10(享年73)−モスクワ

父:ボリース・イヴァーノヴィチ・ブトゥルリーン
母:?

愛人:ツェサレーヴナ・エリザヴェータ・ペトローヴナ 1709-61 (皇帝ピョートル1世・アレクセーエヴィチ

結婚①:
  & アンナ・ミハイロヴナ公女 1699-1727 (ミハイール・ゴリーツィン公)

結婚②:
  & エカテリーナ・ボリーソヴナ公女 1702-72 (ボリース・イヴァーノヴィチ・クラーキン公)

子:

生没年結婚結婚相手生没年その親・肩書き身分
エカテリーナ・ボリーソヴナと
1エカテリーナドルゴルーキイ公
2ヴァルヴァーラドルゴルーキイ公
3ピョートル1734-87

モスクワの大貴族。正教徒。

ブトゥルリーン家は古くからモスクワ大公家に仕える家柄。すでに15世紀にはボヤーリンを輩出している。
 伯父ピョートル・イヴァーノヴィチ(-1724)はピョートル大帝の飲み仲間として有名で、ニキータ・ゾートフの後任として «князь-папа Всешутейшего и Всепьянейшего собора»(カトリック教会をおちょくった、要するに宴会部長)に任命されている。

 アレクサンドル・ブトゥルリーンは、まず近衛軍将校としてピョートル大帝の信頼を得る。
 1725年にエカテリーナ1世が即位すると彼女に接近した。宮廷官僚として台頭し、ツェサレーヴナ・エリザヴェータ・ペトローヴナ付きとなる。この時、アレクサンドル・ブトゥルリーンはエリザヴェータ・ペトローヴナ(まだティーンエイジャー)の愛人となる。

 続くピョートル2世治下でも少将になるなど出世するが、やがて不興を買ってウクライナに飛ばされ、クリム・ハーン国と戦う。失脚の原因は、ピョートル2世の寵臣イヴァン・ドルゴルーキイ公と対立したからとも、叔母(と言っても6歳違い)エリザヴェータ・ペトローヴナを溺愛するピョートル2世の «嫉妬» を買ったからとも言われる。
 女帝アンナ・イヴァーノヴナの治世にはカフカーズで対ペルシャ戦に従軍し(1731-33)、スモレンスク県知事(1735-40)。ウクライナでの対オスマン帝国戦にも従軍し、これらの功績により中将となった。

 1741年にエリザヴェータ・ペトローヴナが即位すると、モスクワ総督(1742-60)に抜擢される。ただしこの時点では、エリザヴェータ・ペトローヴナとの関係は切れていた。
 七年戦争(1756-63)では、ロシア軍総司令官(1760-61)。
 軍人として出発し、各地で戦争を経験し、しかも元帥の称号までもらっているが、一国の軍の最高司令官としては才能がなかったようだ。

 1761年にエリザヴェータ・ペトローヴナが死んだ後、ピョートル3世により前線から呼び戻され、再びモスクワ総督に就任(1762-67)。1762年のクーデタで即位したエカテリーナ2世の下でも、モスクワ総督の職務を維持した。

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