ロシア用語の基礎知識:ク

クインジ アルヒープ
1841-1910。画家。«移動展派» のひとり。独特の色彩感覚で幻想的な風景画を描いた。
グストィン年代記
古代ルーシの年代記のひとつ。チェルニーゴフのグストィニャ修道院の修道士による写本が残っている(原本は存在しない)。原本は1620年代に編纂された。ただし最後の記事は1597年のものである。キエフ・ルーシ崩壊後の記事の中心は当然ながら東ウクライナである。
クトゥーゾフ ミハイル
1745-1813。貴族・軍人。元帥。アレクサンドル1世に嫌われていたが、ナポレオンのロシア遠征ではロシア軍総司令官としてこれと戦い、撃退した英雄。
クニッペル オリガ
1868-1959。女優。チェーホフの妻。もっとも結婚後わずか3年でチェーホフは死んだ。МХАТ(モスクワ芸術座)では、草創時から死の直前まで舞台に立ち続けた。
グラズノフ アレクサンドル
1865-1936。作曲家。しかし作曲家としてよりも教育者として有名。ペテルブルグ音楽院の院長(1907-30)。1928年に亡命。
クラムスコイ ニコライ
1837-87。画家。大衆から遊離した中央画壇と対立して «移動展派» の創始者のひとりとなる。代表作は、苦悩する人間イエスを描いて物議を醸した『荒野のキリスト』や、『見知らぬ女性』。
クリュチコフ ヴラディーミル
1924-2007。政治家。ハンガリー大使館で書記官としてアンドローポフの下で働き、アンドローポフがKGBに転出後、クリュチコーフもKGBに引き抜かれる。以後一貫してKGBでアンドローポフに仕えた。KGB議長(1988-91)、共産党政治局員(1989-90)。八月クーデタの首謀者のひとり。
グリンカ ミハイル
1804-57。作曲家。ロシア音楽の父とも言うべき存在。『ツァーリに捧げられし命』(ソ連時代は『イヴァン・スサーニン』と呼ばれた)と『ルスラーンとリュドミーラ』の2つのオペラが特に有名だが、ロシア連邦国歌(1991-2000)もかれの曲である。
クレムリン
ロシア語で «クレームリ кремль (kreml')» と言えば普通名詞で、«城塞» という意味。古くは、ロシアでは、川や湖に面した丘の上に都市の聖俗権力の中央部としてクレームリが建設されるのが普通だったようだ。そのため、古くからの都市にはあちこちにクレームリがある(たいていは半分廃墟になっているが)。ゆえに、ロシア語ではモスクワのクレムリンを指す場合にはいちいち «モスクワのクレームリ» と言う。
 ちなみに、どうしてロシア語の «クレームリ» の語尾に -in が付け加えられたのかよくわからない。
 モスクワのクレムリンは世界遺産。同時に、ロシアの国家機関の所在地である。このため、日本の永田町、アメリカのホワイトハウス、イギリスのダウニング・ストリート、フランスのエリゼー宮、中国の中南海などのように、政府の代名詞として使われることが多い(この場合はロシア語でも «モスクワの» は不要)。
黒帽子(カラカルパク)
11世紀末からモンゴル襲来まで、キエフ公領南方のポローシエ(ロス流域)に住んでルーシ諸公に従属したテュルク系騎馬諸民族の総称。ペチェネーグ人、ベレンデイ人、トルキ人など。かれらはもともと遊牧民族だったが、徐々に定住化していった。モンゴル襲来後はタタール人やルーシ人(ウクライナ人)に同化された。
グロムィコ アンドレイ
1909-89。外相(1957-85)。第二次大戦中から台頭し、ヤルタ会談にも出席している。生粋の外交官僚から外相になった最初の人物。その出自から地位は低かったが、ローズヴェルトからレーガンまで歴代のアメリカ大統領とわたりあった実績と、«ミスター・ニェット» と呼ばれたタフな外交手腕とから徐々に威信を増していき、ついには一介の外交官僚出身者として唯一の最高指導部入り。特に1980年代前半は、事実上ソ連外交を牛耳った。

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最終更新日 23 02 2013

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