モスクワ・全ルーシの総主教

ロシア正教会の首長である総主教は、正式には «モスクワと全ルーシの総主教 Патриарх Московский и всея Руси» という(ちなみに、Патриарх を小文字にしたのはソ連時代。Московский は文法的には小文字。現在ではどちらも大文字が一般的)。
 ただし歴史的にその変遷を辿るのは少々やっかいである。

 キエフ・ルーシは988年(990年?)にキリスト教を導入した。この際、コンスタンティノープル総主教によりキエフに派遣されたのが、単なる主教であったのか、それともその上の府主教であったのかは、当時のビザンティン帝国側の史料の欠如によりはっきりしない。しかし少なくとも1040年頃までには、キエフの教会は主教ではなく府主教をトップとして戴くようになっていた(ちなみにこの時点で、キエフ・ルーシ内にはノーヴゴロド等ほかに6人の主教がいた)。
 このキエフ府主教は、モンゴル襲来後の1299年、荒廃したキエフを棄てて、北東ルーシのヴラディーミルに移り住む。しかしその直後の1322年には、ヴラディーミルからモスクワに移る。一般的には、これにより、キエフ府主教がヴラディーミル府主教に、さらにモスクワ府主教にと変わったということになっている。
 しかし、座所がどこであれ、府主教がキエフ・ルーシ全体の正教会のボスであったことに違いはない。正式にはその後もその肩書きはキエフ府主教のままだった(ちなみにキエフは1363年にリトアニアに併合された)。

 1437年から39年にかけてのフェッラーラ・フィレンツェ公会議にて、コンスタンティノープル総主教はローマ教皇をトップとした東西両教会の合同に同意した。これは事実上正教会がカトリック教会に呑み込まれることを意味した。キエフ府主教イシードルもこの公会議に出席し、この決定に同意している。
 ところがロシア正教会はこの決定に反発。時のモスクワ大公が帰国したイシードルを投獄し、コンスタンティノープル総主教の承認を得ずにイオーナを府主教に選出してしまった(このため空位期間が6年もある)。
 当時キエフを含むウクライナはリトアニア領であった。そのため、政治的な区分に従って教会の管轄を決めるキリスト教会の慣例に従うと、キエフとモスクワとは別々の教会組織でなければならない。そこにこの問題が持ち上がったため、1458年、コンスタンティノープル総主教はウクライナを管轄するキエフ府主教を別途任命した。新任のキエフ府主教は、キエフ府主教と言いながらも、主にリトアニアの首都ヴィリニュスにあった。リトアニア領の全正教徒を管轄する立場からである。
 モスクワのキエフ府主教が公式にモスクワ府主教を名乗るようになったのはこれ以降である。モスクワ府主教とロシア正教会は、一旦コンスタンティノープル総主教の管轄下から独立した。その後コンスタンティノープル総主教がカトリック教会との合同を否定すると、再びその傘下に入っている。

 ビザンティン帝国は1453年に滅亡。これにより、モスクワ・ロシアは唯一独立を維持した正教国家となった。
 1589年、ボリース・ゴドゥノーフがコンスタンティノープル総主教と交渉した結果、モスクワ府主教座は総主教座として認められた。この当時、コンスタンティノープル、アレクサンドリア、アンティオキア、イェルサレムに次ぐ5番目の総主教座となった。
 1668年、キエフ府主教座を管轄下に収める。

 1700年、アドリアーンが死んだ時、ピョートル大帝は後任の総主教を任命せず、ヤロスラーヴリ府主教ステファーンを «総主教座の守護者 Блюститель Патриаршего престола» に任命。
 1721年、総主教座を廃して、その業務を執行する国家機関として宗務院 Синод を創設した。ロシア正教会のトップはロシア皇帝となり、教会はロシア帝国の国家機構に組み込まれた。

 1917年、二月革命で帝政が崩壊したのを受けて(当然宗務院は消滅)、200年振りに総主教座が復活。しかしそれも束の間、ティーホン死後はソ連政権により総主教選挙が阻まれ、不在の時期が続いた。
 1943年、スターリンが総主教座の復活を許可。

歴代ロシア正教会首長一覧
在位年生没年俗名
キエフ府主教 митрополит киевский
1988-1018?ミハイール
21018?-30?ヨアン1世
31035?-40sフェオペーンプト
4キリール1世
51051-54イラリオーン
61054-65?エフレーム
71065?-76?ゲオルギイ
81077?-89ヨアン2世
91090-91ヨアン3世
101093?-1104?ニコライ
111104-21ニキーフォル
121122-26ニキータ
131130-45ミハイール1世
141147-55クリメーント
151156-58コンスタンティーン1世
161160-63フェオードル
171164-66ヨアン4世
181167-69コンスタンティーン2世
191171-ミハイール2世
201183?-1201?ニキーフォル2世
211210?-マトフェーイ
221224?キリール1世
231236-イオーシフ(ギリシャ人)
241242/47-81キリール2世-1281
251283-1305マクシーム-1305(ギリシャ人)
261308-26ピョートル-1326
271328-53フェオグノースト-1353(ギリシャ人)
281354-78アレクシーイ-1378エレフフェーリイ・フョードロヴィチ・ビャコント/プレシチェーエフ
1379ミハイール-1379
291381-83キプリアーン-1406(ブルガリア人)
301382-84ピーメン
311383-85ディオニーシイ
321390-1406キプリアーン(再)-1406(ブルガリア人)
331408-31フォーティイ-1431(ギリシャ人)
341433-35ゲラーシム
351437-42イシードル-1463
361448-61イオーナ1390s-1461
モスクワ府主教 митрополит московский
11461-64フェオドーシイ-1475
21464-73フィリップ1世-1473
31473-89ゲローンティイ-1489
41490-95ゾシーマ-1496
51495-1511シーモン-1512
61511-21ヴァルラアーム-1533
71522-39ダニイール-1547
81539-42ヨアサーフ-1555
91542-63マカーリイ1482?-1563
101564-66アファナーシイ-1570?
111566-68フィリップ2世1507-69フョードル・ステパーノヴィチ・コルィチョーフ
121568-72キリール4世1492-72
131572-81アントーニイ1501-81
141581-86ディオニーシイ-1587
151586-89イオーフ-1607
モスクワ総主教 патриарх московский
11589-1605イオーフ-1607
21606-12ゲルモゲーン1530-1612
31619-33フィラレート1554?-1633フョードル・ニキーティチ・ロマーノフ
41634-40ヨアサーフ1世-1640
51642-52イオーシフ-1652
61652-66ニーコン1605-81ニキータ・ミノフ
71667-72ヨアサーフ2世-1672
81672-73ピティリーム-1673
91674-90ヨアキーム1621-90
101690-1700アドリアーン1627-1700
1700-21空位
廃止
111917-25ティーホン1865-1925ヴァシーリイ・イヴァーノヴィチ・ベラーヴィン
1925-43空位
121943-44セールギイ1867-1944イヴァン・ニコラーエヴィチ・ストラゴロツキイ
131945-70アレクシーイ1世1877-1970セルゲイ・ヴラディーミロヴィチ・シマンスキイ
141971-90ピーメン1910-90セルゲイ・ミハイロヴィチ・イズヴェコフ
151990-2008アレクシーイ2世1929-2008アレクセイ・ミハイロヴィチ・リディゲル
162009-キリール1946-ヴラディーミル・ミハイロヴィチ・グンデャーエフ

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最終更新日 10 07 2011

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