ウクライナ・コサックのヘトマン

こんにちのウクライナの地は、キエフ・ルーシの政治的統一が失われると、主にガーリチ=ヴォルィニ公領、トゥーロフ=ピンスク公領、キエフ公領、チェルニーゴフ公領、ノーヴゴロド=セーヴェルスキー公領、ペレヤスラーヴリ公領などに分裂した(それらがさらに細分化されたりもした)。
 一旦はガーリチ=ヴォルィニ公が覇権を確立したし、モンゴルが蹂躙してルーシ北東部と同じような宗主権を確立したこともあったが、いずれも長続きしなかった。
 13世紀以降、ウクライナは徐々にリトアニアに侵食されていく。14世紀末までには、こんにちのウクライナの大部分はリトアニア領となり、ガーリチ=ヴォルィニがポーランド領、もともとキエフ・ルーシの勢力圏になかった黒海沿岸部がキプチャク・ハーン領となった。

 1569年、ポーランドとリトアニアが合同するに際して、ウクライナはリトアニアからポーランドに譲渡される。
 黒海沿岸では、キプチャク・ハーン国の権力が衰えて分裂するにつれ、クリム・ハーン国をはじめ、タタール系の諸勢力が成立していた。
 ウクライナは、リトアニアにとってもポーランドにとってもキプチャク・ハーンにとっても、当然ロシアにとっても辺境の地で、その権力が必ずしも及ばない地であった。このため、それぞれの支配を逃れた農民たちがここに集まるようになる。かれらは基本的に正教徒であり «ルーシ人» であったが、その中にはポーランド人もリトアニア人もタタール人もいた。しかし出自がどうあれ、やがてドニェプル中流域を中心に結集し、共同で諸権力と対峙していく中で、徐々に «コサック» という共通の、独自のアイデンティティを育てていく。
 なお、コサックというのはほかにもドン下流域、ヤイク下流域などにそれぞれ独自に形成されていく。それらと区別するため、ウクライナに誕生したコサックをウクライナ・コサック、あるいは、特に初期に関してはザポロージエ・コサックと呼ぶ。

 キエフのはるか南方、クリム・ハーンの勢力圏にぎりぎり接する辺りに本営(シーチ)を築いたザポロージエ・コサックは、当初 «長老(スターロスタ)» により率いられていたが、やがてポーランド=リトアニアの制度を借りて、ヘトマン(ロシア語でアタマン)を選出する。
 ヘトマンはすでに16世紀初頭からいた、と言われるが、その権能なども含めて初期のヘトマンについてはあまりよくわかっていない。史上最初に重要な役割を果たしたのは、17世紀初頭のペトロ・サハイダチヌィーであろう。

 ザポロージエ・コサックはポーランド=リトアニア(あるいはクリム・ハーン)にとってみれば、言わば逃亡者であり無法者、犯罪者である。しかし16世紀が進むにつれてポーランド王はこれを体制に取り込む路線に転換。スターロスタを中心に上層部を «登録コサック» として優遇し、下層部を支配させる方針を採った。
 たとえば16世紀半ばのスターロスタ(ヘトマンとする史料もある)であったドミトロ・ヴィシュネヴェツキイの甥は、ウクライナ最大の地主としてザポロージエ・コサックを弾圧する側にまわっている。しかもその子ミハイロはポーランド王にまでなっている。
 このように、体制側に取り込もうとするポーランドの働きかけに対して、特に下層部を中心に反発が生じるのは当然で、ザポロージエ・コサックの独立の主張が徐々に高まってくる。それが一気に爆発したのが、フメリニーツキイの時代であった。

在位年ロシア語表記
1648-57ボフダン・フメリニツキイボグダン・フメリーニツキイ Богдан Хмельницкий
1657-59イヴァン・ヴィホフスキイイヴァン・ヴィゴフスキイ Иван Выговский
1659-63ユーリイ・フメリニツキイユーリイ・フメリーニツキイ Юрий Хмельницкий
右岸
1663-65パヴロ・テテリャパーヴェル・テテリャ Павел Тетеря
1665ステパン・オパラステパン・オパラ Степан Опара
1665-76ペトロ・ドロシェンコピョートル・ドロシェンコ Пётр Дорошенко
1669-74ミハイロ・ハネンコミハイール・ハネンコ Михаил Ханенко
1677-81ユーリイ・フメリニツキイユーリイ・フメリニーツキイ Юрий Хмельницкий
1692-1704サムイロ・サムシサムイル・サムシ Самуил Самусь
左岸
1660-63ヤキム・ソムコヤキーム・サムコ Яким Самко
1663-68イヴァン・ブリュホヴェツキイイヴァン・ブリュホヴェツキイ Иван Брюховецкий
1669-72デミヤン・ムノホフリシュニイデミヤーン・ムノゴグレシュヌィイ Демьян Многогрешный
1672-87イヴァン・サモイロヴィチイヴァン・サモイロヴィチ Иван Самойлович
1687-1709イヴァン・マゼパイヴァン・マゼーパ Иван Мазепа
1709-22イヴァン・スコロパツキイイヴァン・スコロパーツキイ Иван Скоропадский
1722-24パヴロ・ポルボトクパーヴェル・ポルボトク Павел Полуботок
1727-32ダニロ・アポストルダニイール・アポストル Даниил Апостол
1750-63キリロ・ロズモフスキイキリール・ラズモーフスキイ Кирилл Разумовский
1918パヴロ・スコロパツキイパーヴェル・スコロパーツキイ Павел Скоропадский

 フメリニーツキイはポーランド=リトアニア王、クリム・ハーン、ロシアのツァーリ、さらにはオスマンのスルターンやトランシルヴァニア公などと、あるいは敵対しあるいは同盟して、ザポロージエ・コサックの権限拡大(ひいては独立)に邁進した。1654年、ロシアとペレヤスラーヴリ条約を結ぶ。この条約が具体的に何を定めていたのかは実ははっきりしないが、大雑把に言ってウクライナの歴史学者はこれを対等の同盟、ロシアの歴史学者はツァーリとヘトマンの主従関係を定めたものと考えている。

 フメリニーツキイの死後、上層部はロシアの影響力拡大を怖れてポーランドとの講和を模索し、下層部はロシアと同盟してポーランドに徹底抗戦することを主張するという基本的な図式が生じ、しばしばこれが内紛・内戦に発展している。
 しかしそれ以上にコサックの、ウクライナの歴史に大きな影響を与えたのが、東西の分裂であろう。
 ドニェプル左岸(東部)と右岸(西部)とは、もともと必ずしも違っていたというわけではないが、1660年、ポーランドと講和したユーリイ・フメリニーツキイに反発し、左岸ウクライナのコサックは独自にヤキム・ソムコをヘトマンに選出する。以後、ザポロージエ・コサックは右岸と左岸に分裂した。この分裂を決定的にしたのが、あるいは、1667年、ロシアとポーランドとの間に結ばれたアンドルーソヴォ条約であったろう。この条約で、右岸はポーランド領、左岸はロシア領と定められた。

 この頃、クリム・ハーン国が弱体化し、それに代わってその宗主としてオスマン帝国がこの地域に勢力を拡大してくる。ポーランドも弱体化したこともあって、右岸ウクライナ(すなわちザポロージエ・コサックの西部地域)は、1672年から99年までオスマン帝国領とされた。
 こうして、右岸のヘトマンはオスマンのスルターンを後ろ盾に左岸の併合を目指し、左岸のヘトマンはツァーリを後ろ盾にポーランドやオスマンと戦う、という基本的な図式ができあがる。ポーランドは1699年に右岸ウクライナを奪回した後も、ヘトマンに対する影響力は回復できなかった。

 1704年、ピョートル大帝の許可を得た左岸コサックのヘトマン、マゼパが右岸を占領。40年振りにザポロージエ・コサックは再統一される。
 しかしマゼパは、ピョートル大帝に叛旗を翻し、スウェーデン・オスマンと同盟。1708年にはピョートル大帝にウクライナを追われ、1709年にはポルタヴァの戦いで敗北した。
 以後、マゼパ派はオスマン帝国に «亡命政権» を樹立した(まがりなりにも1775年まで存続した)。

 この頃の現ウクライナ領域を整理してみると、クリミア半島を中心に黒海沿岸部はクリム・ハーン国(オスマン帝国の属国)、その北部の左岸ウクライナはロシア領(ヘトマン)、西ウクライナの黒海沿岸部はオスマン帝国領、その北の右岸ウクライナはロシアとオスマン帝国の係争地、その北のプリピャチ流域と西のガーリチ=ヴォルィニ(ガリツィア)はポーランド領となっていた。
 右岸ウクライナはポルタヴァの戦い以後徐々にロシアの勢力圏に組み込まれていき、1734年までにはほぼその領土となっていた。最終的にオスマン帝国がザポロージエ・コサックを見限るのは1775年。前年の1774年にキュチュク・カイナルジ条約でオスマン帝国はウクライナに対する権利の放棄を余儀なくされていた。
 クリム・ハーン国は1783年に、残る黒海沿岸部は1791年までに、プリピャチ流域は1793年に(第2次ポーランド分割)、ガリツィアの一部は1795年に(第3次ポーランド分割)、それぞれロシアに併合されている。

 1722年、ピョートル大帝は小ロシア(ウクライナ)参事会を創設し、ヘトマンと権限を分担させる。同年スコロパツキイが死ぬと、ピョートル大帝は後任ヘトマンの選出を許さず(このためポルボトクは正式には «臨時ヘトマン»)。
 1727年、小ロシア参事会は解散され、アポストルがヘトマンに選出された。しかし1732年にアポストルが死ぬと、女帝アンナ・イヴァーノヴナは後任を選出させず、ヘトマン統治委員会を設置。
 1750年、女帝エリザヴェータ・ペトローヴナの愛人オレクシ・ロズモフスキイ(アレクセイ・ラズモーフスキイ)の弟キリロがヘトマンとして押し付けられる。
 1763年、女帝エカテリーナ2世によりロズモフスキイは辞任。総督が派遣される。1775年にはシーチが廃止された。1781年、ウクライナは完全にロシアの地方行政に組み込まれた。

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最終更新日 17 01 2013

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