トゥーロフ=ピンスク公領
トゥーロフ=ピンスク公領は、プリーピャチ河流域の湿地帯を領土とする。中心都市のトゥーロフもピンスクも、いずれもプリーピャチ河畔の都市である。
領土的には、東はドニェプル河をはさんでチェルニーゴフ公領、北はポーロツク公領、南はキエフ公領、南西はヴォルィニ公領、北西は(おそらく)グロドノ公領に囲まれている。現在のベラルーシの南部一帯に、若干ウクライナ領が加わる。
トゥーロフ=ピンスク公領という名称は、12世紀半ば以降にトゥーロフが重要性を減じ、逆にピンスクが重要性を増したことによって生まれた。それ以前はトゥーロフ公領とだけ呼ばれている。
ここは古くからドレゴヴィチー人が独自の公国を形成していたとされる。スヴャトスラーフ・イーゴレヴィチによってキエフ・ルーシに併合された。
トゥーロフはプリーピャチ水系の重要な交易地であり、かつキエフ・ルーシがヴォルィニの支配を巡ってポーランドと争う時代には戦略的にも重要な前線基地であった。11世紀半ばにキエフ大公がポーロツク公と争った際にも、ポーロツク公領と隣接するトゥーロフ公領の存在は重要であった。おそらくこうしたことから、初期には長男に準じる息子がトゥーロフ公として派遣されている。1005年頃、まだポーロツクにもスモレンスクにもガーリチにも主教座がなかった時に、トゥーロフに主教座が設置されている。
しかしトゥーロフ公領の歴史は、紆余曲折を辿ることになる。
スヴャトポルク・オカヤンヌィイはヴィーシュゴロドに移され、始まったばかりの歴史はすぐに中断される。イジャスラーフ・ヤロスラーヴィチはキエフ大公となり、おそらくトゥーロフ公領はキエフ大公の直轄領となった。その子のヤロポルク・イジャスラーヴィチは同時にヴォルィニも領有し、おそらくヴラディーミル=ヴォルィンスキイに住んだものと思われる。続くスヴャトポルク・イジャスラーヴィチもやがてキエフ大公となり、トゥーロフ公領は再びキエフ大公の直轄領となった。
この時期、キエフ・ルーシには «ヴォーッチナ(父祖伝来の地)» という概念が一般化し、諸公によるヴォーッチナの世襲権を尊重する原則が確立したが、トゥーロフ公領の場合、相次いでキエフ大公の直轄領となったことで、イジャスラーヴィチ一族のヴォーッチナという認識が薄かったかもしれない。
と言うのも、スヴャトポルク・イジャスラーヴィチ死後にトゥーロフ公領がどうなったかはっきりせず、少なくともスルーツクは1116年の時点ではキエフ大公ヴラディーミル・モノマーフの領土となっている。さらに1125年からの30年間はイジャスラーヴィチ一族とは無関係の、キエフ大公の血縁者が代々トゥーロフ公に任命されている。この時期には、トゥーロフ公領はキエフ公領の一部と見なされていたと言えるかもしれない(歴史地図にも、キエフ公領とトゥーロフ公領を区別しないものがある)。
1157年、ユーリイ・ヤロスラーヴィチがトゥーロフ公になるに及んで、ようやくイジャスラーヴィチが復帰。これに伴い、トゥーロフ公領もキエフ公領から切り離された独自の公領として確立したと言っていいだろう。
しかしその子の代に公領は、トゥーロフ、ピンスク、ドゥブローヴィツァなどの分領に分裂。他の公領のように中心となる公(この場合はトゥーロフ公)が各分領公に宗主権を及ぼした(及ぼせた)のか疑問で、あまつさえクレツクやスルーツクなどはポーロツクやヴォルィニの勢力圏に組み込まれている。トゥーロフ=ピンスク公領は急速に瓦解していった。
すでに12世紀末には年代記にもほとんど姿を見せなくなり、各地の公についてもイジャスラーヴィチ一族についてもわからなくなる。
1240年のモンゴル襲来に際しては、トゥーロフ=ピンスク公領の諸都市がモンゴル軍に攻略されたか否か、年代記は記していない。攻略されないほど魅力がなかったのか、攻略されたとしてもそれを年代記に記す価値がないほど没落していたのか。
その後は北西からリトアニアが勢力を拡大。トゥーロフ=ピンスク公領(もはやそのような統一的な政治体は存在せず、小さな分領が各地に林立した)はリトアニアの属領と化した。最終的に併合されるのは、1336年。
トゥーロフ公 князь Туровский
トゥーロフ Туров はウクライナとの国境に近い、プリーピャチ河畔の都市(ベラルーシ共和国ゴメリ州)。
トゥーロフ公領と言った場合、12世紀半ばまではトゥーロフ=ピンスク公領全体を指すが、それ以降は都市トゥーロフとその周辺(ただしその領域は不明)。
初期のトゥーロフ公位は非常に重要なものと見られていたらしいことが、その歴代の公からもわかる。しかし上述のように、各地でヴォーッチナの確立していった11世紀末にキエフ大公の直轄領であったことが、トゥーロフ公領が独立の公領として発展していく上で最初のつまづきになったと言えるだろう。12世紀前半は、トゥーロフ公領など事実上存在せず、トゥーロフはキエフ公領の一分領でしかなかったと言ってもいいかもしれない。1140年代後半から1150年代前半にかけての10年間に、しばしば空位が見られる事実が、それを裏付けている。
これは、トゥーロフという都市の重要性が低下したことと関連があるだろう。かつての «ヴァリャーギからビザンティンへの道» もさびれ、プリーピャチ水系の重要性も薄れて、トゥーロフの商業的繁栄は終わりを迎えていた。またキエフ大公はポーロツク公領にあまり関心を示さず、キエフとポーロツクの中間に位置するトゥーロフの戦略的な価値も低下していたと言える。ちょうどこの頃から、トゥーロフ公領がトゥーロフ=ピンスク公領と呼ばれるようになったのは、まさにこの表れである。
1157年にイジャスラーヴィチがトゥーロフ公領を奪回できたのも、あるいはこのためだったかもしれない。実際、その後もキエフ大公をはじめ周辺諸公は特にトゥーロフ=ピンスク公領に関心を寄せていない。関心を寄せていないのは周辺諸公だけでなく年代記作家もそうで、このためこの時期以降のトゥーロフ=ピンスク公領についてはほとんどわかっていない。
上でも述べたが、ユーリイ・ヤロスラーヴィチの子らの代はまだしも、それ以降のトゥーロフ公がトゥーロフ=ピンスク公領全体の宗主権を維持していたのかどうかははなはだ疑問。単に大勢いる分領公のひとりに成り下がっていたのではないかと思われる。
これも上で述べたが、モンゴルの襲来ではおそらくトゥーロフは攻略されていない。ただし1246年になってトゥーロフも巻き込んだ戦闘がおこなわれている。
1320年頃からリトアニアの勢力が浸透してきて、トゥーロフも1330年頃までにはその領土となった。1246年から1320年頃までの期間については、空白である。
─ | トゥール | ─ | ||
988-1013 | 5 | スヴャトポルク・オカヤンヌィイ | リューリコヴィチ | (キエフ大公ヴラディーミル偉大公の子) |
-1052 | 6 | イジャスラーフ・ヤロスラーヴィチ | イジャスラーヴィチ | 甥(ヤロスラーフ賢公の子) |
1078-87 | 7 | ヤロポルク・イジャスラーヴィチ | イジャスラーヴィチ | 子 |
1088-93 | 7 | スヴャトポルク・イジャスラーヴィチ | イジャスラーヴィチ | 弟 |
1113- | 8 | ブリャチスラーフ・スヴャトポールチチ? | イジャスラーヴィチ | 子 |
1125-32 | 8 | ヴャチェスラーフ・ヴラディーミロヴィチ | モノマーシチ | (ヴラディーミル・モノマーフの子) |
1132-34 | 9 | イジャスラーフ・ムスティスラーヴィチ | モノマーシチ(ヴォルィニ系) | 甥(ムスティスラーフ偉大公の子) |
1134-42 | 8 | ヴャチェスラーフ・ヴラディーミロヴィチ | モノマーシチ | 叔父/再任 |
1142 | 9 | スヴャトスラーフ・フセヴォローディチ | スヴャトスラーヴィチ(チェルニーゴフ系) | (フセーヴォロド・オーリゴヴィチの子) |
1142-46 | 8 | ヴャチェスラーフ・ヴラディーミロヴィチ | モノマーシチ | 再任 |
1146 | 10 | ヤロスラーフ・イジャスラーヴィチ | モノマーシチ(ヴォルィニ系) | (イジャスラーフ・ムスティスラーヴィチの子) |
1150-51 | 9 | アンドレイ・ボゴリューブスキイ | モノマーシチ(ヴラディーミル系) | (ユーリイ・ドルゴルーキイの子) |
1154 | 9 | スヴャトスラーフ・フセヴォローディチ | スヴャトスラーヴィチ(チェルニーゴフ系) | 再任 |
1156-57 | 9 | ボリース・ユーリエヴィチ | モノマーシチ(ヴラディーミル系) | (アンドレイ・ボゴリュープスキイの弟) |
1157-67 | 9 | ユーリイ・ヤロスラーヴィチ | イジャスラーヴィチ | (スヴャトポルク・イジャスラーヴィチの孫) |
1167-90 | 10 | イヴァン・ユーリエヴィチ | イジャスラーヴィチ | 子 |
1190-95 | 10 | グレーブ・ユーリエヴィチ | イジャスラーヴィチ | 弟 |
1195-1207 | 10 | イヴァン・ユーリエヴィチ | イジャスラーヴィチ | 兄/再任 |
-1292 | 12 | ユーリイ・ヴラディーミロヴィチ | イジャスラーヴィチ | (グレープの孫) |
14c.初頭 | ? | ドミートリイ・ユーリエヴィチ | ? | ? |
14c.半ば | ? | ダニーラ・ドミートリエヴィチ | ? | 子? |
14c.半ば | ? | フョードル・ダニーロヴィチ | ? | 子? |
1316- | ─ | グレーブ(異教名ナリマンタス)? | ゲディミノヴィチ | (リトアニア大公ゲディミナスの子) |
クレツク公 князь Клечский
クレツク Клецк (クレチェスク Клеческ とも)はミンスクの南西にある都市(ベラルーシ共和国ミンスク州)。
トゥーロフ=ピンスク公領の分領としてはかなり早い時期に誕生した分領で、史料上最初に確認されるのは1127年だが、おそらくそれ以前に分領になっていたのではないかと考えられている。12世紀のイジャスラーヴィチ一族の中で、分領のわかっていない者はなべてクレツク公に擬される傾向がある。
のちミンスク公(ポーロツク公領)の属領となる。13世紀には早くもリトアニア人の公が立てられ、その属領として組み込まれていった。
1120s | 9 | ヴャチェスラーフ・ヤロスラーヴィチ | イジャスラーヴィチ | (ヤロスラーフ・スヴャトポールチチの子) |
1142- | 8 | ノーヴゴロト=セーヴェルスキイ公スヴャトスラーフ・オーリゴヴィチ | スヴャトスラーヴィチ(セーヴェルスキイ系) | (オレーグ・スヴャトスラーヴィチの子) |
スルーツク公 князь Слуцкий
スルーツク Слуцк (スルーチェスク Случеск とも)はミンスクとトゥーロフとの中間に位置する都市(ベラルーシ共和国ミンスク州)。
もともとはトゥーロフ公領でもポーロツク公領でもなかったようで、1116年の時点でヴラディーミル・モノマーフの領土だった(これが年代記の初出)。その後、どうやらモノマーシチに受け継がれたらしく、1149年の時点ではユーリイ・ドルゴルーキイの領土。1162年、ヴラディーミル・マーチェシチから取り上げられ、トゥーロフ=ピンスク公領とされた。
トゥーロフ=ピンスクの分領となってからは公の存在はほとんど確認されないが、イジャスラーヴィチ一族の誰かに継承されたものと思われる。しかしこの時点ではすでにトゥーロフ=ピンスク公領は弱体化しており、歴代スルーツク公も隣接するヴォルィニ公の強い影響を受けた。
1326年にリトアニアに併合される。1387年にユーリイという公が言及されたのが、おそらく最後の公。その後1395年から1612年まで、ゲディミノヴィチが公であった(オレリコヴィチ)。
1162 | 9 | ヴラディーミル・マーチェシチ | モノマーシチ | (ムスティスラーフ偉大公の子) |
-1387- | ? | ユーリイ | ||
1395-98 | ─ | ヴラディーミル・オリゲルドヴィチ | ゲディミノヴィチ | (リトアニア大公アルギルダスの子) |
1398-1454 | ─ | オレリコ・ヴラディーミロヴィチ | ゲディミノヴィチ(オレリコヴィチ) | 子 |
1454-81 | ─ | ミハイール・オレリコヴィチ | ゲディミノヴィチ(オレリコヴィチ) | 子 |
1481-1505 | ─ | セミョーン・ミハイロヴィチ | ゲディミノヴィチ(オレリコヴィチ) | 子 |
1505-42 | ─ | ユーリイ・セミョーノヴィチ | ゲディミノヴィチ(オレリコヴィチ) | 子 |
1542-78 | ─ | ユーリイ・ユーリエヴィチ | ゲディミノヴィチ(オレリコヴィチ) | 子 |
1578-86 | ─ | ユーリイ・ユーリエヴィチ | ゲディミノヴィチ(オレリコヴィチ) | 子 |
1578-93 | ─ | セミョーン・ユーリエヴィチ | ゲディミノヴィチ(オレリコヴィチ) | 弟 |
1578-91 | ─ | アレクサンドル・ユーリエヴィチ | ゲディミノヴィチ(オレリコヴィチ) | 弟 |
1593-1612 | ─ | ソフィヤ・ユーリエヴナ | ゲディミノヴィチ(オレリコヴィチ) | 姪(ユーリイの娘) |
ペレソープニツァ公 князь Пересопницкий
ペレソープニツァ Пересопница はトゥーロフとルーツクの中間辺りにあった都市(ウクライナ共和国ローヴノ州)。
その地理的関係から、当初は帰属がはっきりしない。トゥーロフ公領の一部だったようで、しばしばトゥーロフ公もここに住んでいる。しかしトゥーロフ公領がキエフ大公の «直轄領» になると、ペレソープニツァもキエフ公領に組み込まれた。1157年、ムスティスラーフ・イジャスラーヴィチによってヴォルィニ公領に移された。
1146-49 | 8 | ヴャチェスラーフ・ヴラディーミロヴィチ | モノマーシチ | (ヴラディーミル・モノマーフの子) |
1150 | 9 | ムスティスラーフ・ユーリエヴィチ? | モノマーシチ(ヴラディーミル系) | 甥(ユーリイ・ドルゴルーキイの子) |
1150-51 | 9 | アンドレイ・ボゴリューブスキイ | モノマーシチ(ヴラディーミル系) | 兄 |
1152-54 | 9 | ヴラディーミル・アンドレーエヴィチ? | モノマーシチ | 従兄弟 |
1155-56 | 10 | ムスティスラーフ・イジャスラーヴィチ? | モノマーシチ(ヴォルィニ系) | (イジャスラーフ・ムスティスラーヴィチの子) |
1180-1226 | 11 | ムスティスラーフ聾唖公 | モノマーシチ(ヴォルィニ系) | 甥(ヤロスラーフ・イジャスラーヴィチの子) |
1227-38 | 12 | ヴァシリコ・ロマーノヴィチ | モノマーシチ(ヴォルィニ系) | (ロマーン偉大公の子) |
ピンスク公 князь Пинский
ピンスク Пинск はウクライナとの国境にほど近い、プリーピャチ河畔の都市(ベラルーシ共和国ピンスク州州都)。
11世紀からすでにイジャスラーヴィチの領土となっていたが(おそらくトゥーロフ公領の一部だったのだろう)、12世紀半ばにイジャスラーヴィチがトゥーロフ公領を奪回した際には重要性でトゥーロフと肩を並べるまでになっており、以後トゥーロフ=ピンスク公領と呼ばれるようになる。
ユーリイ・ヤロスラーヴィチの子らによってトゥーロフ=ピンスク公領が分割された際に分領となった。一般的に、トゥーロフ公位と同様、ピンスク公位もユーリエヴィチ兄弟によってたらい回しにされたと考えられているようだ(ここで挙げられているヤロスラーフ・ユーリエヴィチ以外の兄弟もピンスク公とされることが多い)。
その後、本来トゥーロフ=ピンスク公領全体の宗主権を握るべきトゥーロフ公が力を発揮できなかった(そもそも存在しなかった?)と思われ、歴代のピンスク公も独自に南西のヴォルィニ、北西のリトアニアと比較的良好な関係を維持している。この時期はむしろ、ピンスク公がトゥーロフ=ピンスク公領の宗主権を握っていたのかもしれない。
13世紀後半以降、力の差は如何ともしがたくなり、1320年、ピンスク公領はリトアニアに併合された。グレープ(ナリマンタス)は一般的にトゥーロフ公ではなくピンスク公と呼ばれている。その後もリトアニア治下の公領として、1500年頃まで存続した。
なお1328年にはピンスクに独自の主教座が設けられ、教会制度上もトゥーロフ=ピンスク公領は分裂している。
1182頃 | 10 | ヤロスラーフ・ユーリエヴィチ | イジャスラーヴィチ | (トゥーロフ公ユーリイ・ヤロスラーヴィチの子) |
1228 | 11 | ロスティスラーフ・グレーボヴィチ? | イジャスラーヴィチ | 甥 |
-1229 | 11 | ヴラディーミル・グレーボヴィチ | イジャスラーヴィチ | 弟 |
12 | フョードル・ヴラディーミロヴィチ | イジャスラーヴィチ | 子 | |
-1292 | 12 | ユーリイ・ヴラディーミロヴィチ | イジャスラーヴィチ | 弟 |
1292- | 12 | デミード・ヴラディーミロヴィチ | イジャスラーヴィチ | 弟 |
1316-48 | ─ | グレーブ(異教名ナリマンタス) | ゲディミノヴィチ | (リトアニア大公ゲディミナスの子) |
1348- | ─ | ミハイール・グレーボヴィチ | ゲディミノヴィチ(ピンスキイ家) | 子 |
─ | ヴァシーリイ・ミハイロヴィチ | ゲディミノヴィチ(ピンスキイ家) | 子 | |
─ | ユーリイ・ヴァシーリエヴィチ・ノース | ゲディミノヴィチ(ピンスキイ家) | 子 | |
-1471 | ─ | ユーリイ・セミョーノヴィチ | ゲディミノヴィチ(ピンスキイ家) | |
1471-1501 | ─ | マリーヤ・イヴァーノヴナ | ゴシュタウタス家 | (キエフ公セミョーン・オレリコヴィチの寡婦) |
1480-95 | ─ | ヴァシーリイ・セミョーノヴィチ | ゲディミノヴィチ(オレリコヴィチ家) | 子 |
ドゥブローヴィツァ公 князь Дубровицкий
ドゥブローヴィツァ Дубровица はピンスクの南方の都市(ウクライナ共和国ローヴノ州)。
トゥーロフ=ピンスク公領が1167年(68年?)のユーリイ・ヤロスラーヴィチの死後分割された際に分領になったと考えられている。その後2代の公の名が知られる。
1182-90 | 10 | グレーブ・ユーリエヴィチ | イジャスラーヴィチ | (トゥーロフ公ユーリイ・ヤロスラーヴィチの子) |
-1223 | 11 | アレクサンドル・グレーボヴィチ | イジャスラーヴィチ | 子 |
ステパニ公 князь Степаньский
ステパニ Степань はドゥブローヴィツァのすぐ南隣の小村(ウクライナ共和国ローヴノ州)。
情報が乏しいのではっきりしないが、1200年頃に分領になったと思われる。しかし情報量の貧しさは相変わらずで、歴代公の名前が散見されるだけ。1387年にはセミョーンという公がいたが、これがヴラディーミル・イヴァーノヴィチの子孫なのか、それともゲディミノヴィチか、はたまたほかの系統なのか、それも不明。
1220s | 11 | ロスティスラーフ・グレーボヴィチ | イジャスラーヴィチ | (トゥーロフ公グレーブ・ユーリエヴィチの子) |
12 | グレーブ・ロスティスラーヴィチ | イジャスラーヴィチ | 子 | |
-1292 | 13 | イヴァン・グレーボヴィチ | イジャスラーヴィチ | 子 |
1290- | 14 | ヴラディーミル・イヴァーノヴィチ | イジャスラーヴィチ | 子 |
-1387- | ? | セミョーン |