ルーシ諸公

スーズダリ公領

スーズダリはユーリイ・ドルゴルーキイの時代には北東ルーシの主都となっているが、一般的にスーズダリ公領と言った場合、北東ルーシの分領のひとつを指す。より具体的には、アレクサンドル・ネフスキイの弟であるアンドレイ・ヤロスラーヴィチの一族が代々領有した分領である。
 とはいえ、その領土は一定していない。
 アンドレイ・ヤロスラーヴィチは、1256年にヴラディーミルの近郊に位置するスーズダリと、そのはるか東方にあるゴロデーツ(ニージュニイ・ノーヴゴロド含む)とを獲得した。しかしその子らは、おそらくゴロデーツを失い、スーズダリだけを領有していた。さらにその子らの代になって、再びゴロデーツを獲得。こうして西のスーズダリと東のゴロデーツ(ニージュニイ・ノーヴゴロド含む)とから成るスーズダリ公領が最終的に成立した。もっともそのわずか60年後の1393年には、スーズダリ公領はモスクワ大公によって併合されてしまう。
 スーズダリ公領の歴史は、わずか140年にも満たない短いものであった。

 スーズダリは北東ルーシ有数の古都だが、スーズダリ公領が成立した時点ではすでに没落過程にあった。1300年前後には急速にニージュニイ・ノーヴゴロドが台頭し、これがスーズダリ公領に併合されると、公領の主都の地位はスーズダリからニージュニイ・ノーヴゴロドに移った。このため、特に14世紀後半以降はスーズダリ公領ではなく «ニジェゴロド=スーズダリ公領» と呼ばれるのが一般的である。これ以降も文献には時々 «スーズダリ公» と呼ばれる公が登場するが、かれらは通常はスーズダリではなくニージュニイ・ノーヴゴロドに居住している。
 モスクワ大公に併合された後も、その末裔が公領復活のために種々策動しているし、何度か実際に再建されたこともある。しかしいずれも再建しようとした(再建した)のは、狭い意味でのスーズダリ公領ではなくニージュニイ・ノーヴゴロド公領である。

 なお、スーズダリ系諸公の中心人物は、いつの頃からか «大公» を称している。アンドレイかドミートリイのコンスタンティーノヴィチ兄弟から、とするのが一般的な理解だろう。その時々でスーズダリ大公と呼ばれたりニージュニイ・ノーヴゴロド大公と呼ばれたりしているが(あるいはニジェゴロド=スーズダリ大公)、上述のように実際に居住したのはニージュニイ・ノーヴゴロドである。

スーズダリ公 князь Суздальский

 スーズダリ Суздаль はヴラディーミルの北方に位置するロシアの古都(ロシア連邦ヴラディーミル州)。

 年代記に初登場したのは1024年。その後ロストーフ公領の都市として徐々に発展し、ロストーフとの立場を逆転させるにいたる。12世紀初頭、ユーリイ・ドルゴルーキイによりロストーフに代わって公領の主都となり、北東ルーシはロストーフ=スーズダリ公領、あるいはスーズダリ公領と呼ばれるようになる。ユーリイ・ドルゴルーキイが南ルーシに去った時、息子を残したのもロストーフではなくスーズダリであった。
 しかしスーズダリが北東ルーシの主都であった時期はごく短く、早くもユーリイ・ドルゴルーキイが死ぬとアンドレイ・ボゴリューブスキイによって、貴族勢力の強かったスーズダリからヴラディーミルに主都が移された。以後、北東ルーシはヴラディーミル=スーズダリ公領と呼ばれる(最終的にはヴラディーミル大公領)。フセーヴォロド大巣公死後の混乱期に一時的にユーリイ・フセヴォローディチに、モンゴル襲来後(スーズダリも1238年にモンゴル軍に破壊された)にスヴャトスラーフ・フセヴォローディチに与えられたこともあったが、継続的な分領としての歴史が始まるのは1256年からである。

 1256年、アレクサンドル・ネフスキイとヴラディーミル大公位を争って敗れたアンドレイ・ヤロスラーヴィチが、兄と和解してスーズダリとゴロデーツを分領としてもらった。しかし1264年にアンドレイ・ヤロスラーヴィチが死ぬと、遺児ユーリイ・アンドレーエヴィチにはスーズダリ公領だけが与えられ、ゴロデーツ公領はアレクサンドル・ネフスキイの遺児アンドレイ・アレクサンドロヴィチに与えられた。
 東方のゴロデーツ公領を失ったスーズダリ公領は、西をユーリエフ=ポーリスキイ公領、北をロストーフ公領、南をヴラディーミル大公本領、東をスタロドゥープ公領に囲まれた狭小な分領である(現在のヴラディーミル州とイヴァーノヴォ州のそれぞれ一部)。そのためもあってか以後しばらくスーズダリ公はこれといった活躍をしていない(歴代公の個性もあったのだろうが)。

 スーズダリ公が再び脚光を浴びるのは、1327年のトヴェーリ遠征とその戦後処理においてである。ここでアレクサンドル・ヴァシーリエヴィチはゴロデーツ公領を与えられ、しかもヴラディーミル大公位も獲得したともされる(異説もある)。ゴロデーツ公領はアレクサンドル・ヴァシーリエヴィチの死とともに失われたとする説もあるが、いずれにせよ1341年までにスーズダリ公領となっていたことは確かである。
 その1341年、モスクワ公イヴァン・カリターの死で、モスクワ公の勢力拡大に反発していた北東ルーシ諸公により、コンスタンティーン・ヴァシーリエヴィチがヴラディーミル大公に推された。コンスタンティーン・ヴァシーリエヴィチは1353年にもヴラディーミル大公に名乗りを挙げており、その子ドミートリイ・コンスタンティーノヴィチは1360年についにヴラディーミル大公位を獲得している。たまたまこの頃トヴェーリ公が内紛で身動きの取れない状況にあったという事情もあったにせよ、勃興するモスクワ公の対抗馬にスーズダリ公が擬されたという事実は、スーズダリ公領の勢力拡大を物語っている。
 スーズダリ公領の勢力拡大を支えたのはゴロデーツ公領であった。コンスタンティーン・ヴァシーリエヴィチは1350年に住居をスーズダリから、ゴロデーツ公領のニージュニイ・ノーヴゴロドに遷し、積極的にウラル系民族の地に植民を進め、東方に大きく領土を拡大した。この結果、公領はこの頃からスーズダリ=ニジェゴロド公領、あるいはニジェゴロド=スーズダリ公領と呼ばれるようになる。スーズダリはまたしても主都の地位を他都市に奪われた。1355年のコンスタンティーン・ヴァシーリエヴィチの死後、公領はスーズダリ、ニージュニイ・ノーヴゴロド、ゴロデーツの3つの分領に分割されたが、最年長者がニージュニイ・ノーヴゴロドを領有した。

 これ以降のスーズダリ公領(ニジェゴロド=スーズダリ大公領の分領としてのスーズダリ公領)については、たまたま(ニージュニイ・ノーヴゴロド公の兄ではなく)ドミートリイ・コンスタンティーノヴィチがヴラディーミル大公となった以外、特筆すべきことはない。
 14世紀前半の権威の伸張は、しょせんモスクワ公の当て馬としてのものであり、すでにドミートリイ・コンスタンティーノヴィチ自身が後半生においてはモスクワ公に従属している。ましてドミートリイ・コンスタンティーノヴィチ死後は、スーズダリを継いだその遺児たちが、ニージュニイ・ノーヴゴロドを継いだ叔父と対立し、モスクワ大公の介入を自ら要請。すでに1393年までにスーズダリ公領は事実上モスクワ大公の属国となっていたと言ってもいいだろう。
 1393年、モスクワ大公ヴァシーリイ1世がハーンからニージュニイ・ノーヴゴロドの領有を認められ、これを併合。しかしスーズダリについては1393年ではなく、翌1394年に併合したらしい。最後の公となったドミートリエヴィチ兄弟にはシューヤが分領として与えられたほか、スーズダリ公(ニジェゴロド=スーズダリ大公)の名乗りが認められたようだ。
 なお、ドミートリイ・コンスタンティーノヴィチ以降は、モスクワ大公の向こうを張って大公を自称していた。

 12世紀前半以前の公位については北東ルーシを参照のこと。

1095-11498ユーリイ・ドルゴルーキイヴラディーミル系(ヴラディーミル・モノマーフの子)
1149-549ヴァシリコ・ユーリエヴィチヴラディーミル系
1154-559ミハルコ・ユーリエヴィチヴラディーミル系
1155-579アンドレイ・ボゴリューブスキイヴラディーミル系
1217-1810ユーリイ・フセヴォローディチヴラディーミル系甥(フセーヴォロド大巣公の子)
1238-4610スヴャトスラーフ・フセヴォローディチヴラディーミル系
1256-6411アンドレイ・ヤロスラーヴィチヴラディーミル系(スーズダリ系)
1264-7912ユーリイ・アンドレーエヴィチヴラディーミル系(スーズダリ系)
1279-130512ミハイール・アンドレーエヴィチヴラディーミル系(スーズダリ系)
1305-0912ヴァシーリイ・アンドレーエヴィチヴラディーミル系(スーズダリ系)
1309-3213アレクサンドル・ヴァシーリエヴィチヴラディーミル系(スーズダリ系)
1332-5513コンスタンティーン・ヴァシーリエヴィチヴラディーミル系(スーズダリ系)
1355-5914アンドレイ・コンスタンティーノヴィチヴラディーミル系(スーズダリ系)
1359-8314ドミートリイ・コンスタンティーノヴィチヴラディーミル系(スーズダリ系)
1383-87/9315セミョーン・ドミートリエヴィチヴラディーミル系(スーズダリ系)
1387-9315ヴァシーリイ・キルデャーパヴラディーミル系(スーズダリ系)

ゴロデーツ公 князь Городецкий

 ゴロデーツ Городец はニージュニイ・ノーヴゴロド北西にある、ヴォルガ河畔の都市(ロシア連邦ニージュニイ・ノーヴゴロド州)。ルーシにはほかにも多数のゴロデーツ(ないし類似の名前)という都市があるため、このゴロデーツはしばしばゴロデーツ=ナ=ヴォルゲ Городец-на-Волге、あるいはゴロデーツ=ヴォルジュスキイ Городец-Волжский などと呼ばれる(どちらも正式名称ではない)。
 建設の年は1152年とも1172年ともされる。1221年までは、ヴォルガ・ブルガールやウラル系諸民族の地に対するキエフ・ルーシの最前線に位置していた(1221年にはさらに東にニージュニイ・ノーヴゴロドが建設される)。1238年、モンゴル軍に破壊された。

 アレクサンドル・ネフスキイが1256年にアンドレイ・ヤロスラーヴィチにスーズダリとあわせて分領として与えている。その領域はよくわからないが、おそらく北東ルーシの東部一帯に広がっていただろう。ニージュニイ・ノーヴゴロドも含まれており、ウラル系諸民族の地に深く食い込んでいく形になっていたはずだ。とはいえ、現在の地図で見れば、少なくとも当初はニージュニイ・ノーヴゴロド州の北西部に、イヴァーノヴォ州の一部が加わる程度の領土した有していなかった。ニージュニイ・ノーヴゴロド(とオカー河)が最前線だったのである。
 史料上ゴロデーツが言及されるのは、1263年、アレクサンドル・ネフスキイが息を引き取った場所として(たまたま立ち寄っただけだが)、そして1282年、アレクサンドル・ネフスキイの子アンドレイ・アレクサンドロヴィチの分領として。1256年にアンドレイ・ヤロスラーヴィチに与えられたゴロデーツが、いつの間にアンドレイ・アレクサンドロヴィチの分領になっているのかその経緯は不明だが、おそらく1264年にアンドレイ・ヤロスラーヴィチが死んだ際に没収されたのだろう。
 1304年のアンドレイ・アレクサンドロヴィチの死後、ゴロデーツ公領の消息は再びよくわからなくなる。遺児ミハイール・アンドレーエヴィチが継いだとする説、ヴラディーミル大公領(実際はトヴェーリ公領)になったとする説があり、さらにモスクワ公によって奪われた(あるいはミハイール・アンドレーエヴィチの死後獲得した)とする説もある。
 1327年、トヴェーリ遠征の論功行賞としてキプチャク・ハーンによりスーズダリ公アレクサンドル・ヴァシーリエヴィチに与えられた。アレクサンドル・ヴァシーリエヴィチが1331年に死ぬとヴラディーミル大公領(実際はモスクワ公領)になったとする説もあるが、いずれにせよ1341年の時点ではスーズダリ公領となっていた。
 すでにボリース・ダニイーロヴィチが(かれがゴロデーツ公になっていたとして)、公領の主都をゴロデーツからニージュニイ・ノーヴゴロドに遷していたとも言われるが、少なくとも1341年までには公領の中心都市はニージュニイ・ノーヴゴロドになっていた。
 そしてこれ以降、歴代スーズダリ公がゴロデーツ公領の開発(特に東方ウラル系諸民族への勢力拡大)に積極的に取り組んだため、その領土は大きく東に拡大した。

 1355年、スーズダリ公コンスタンティーン・ヴァシーリエヴィチの死で、遺領が分割される。この際、ゴロデーツ公領もゴロデーツとニージュニイ・ノーヴゴロドに二分された。ニージュニイ・ノーヴゴロドはすでにスーズダリ公領全体の主都となっており、公領もニジェゴロド=スーズダリ公領と呼ばれるようになっていた。しかしゴロデーツ公領はこれ以降、ニージュニイ・ノーヴゴロドのおまけ的な位置づけしかされない。そもそも1387年以降はゴロデーツ公領を領有していたのが誰かもはっきりしない始末である。
 おそらく1393年、ニージュニイ・ノーヴゴロドとともにモスクワ大公ヴァシーリイ1世に併合された。

1216-1710ユーリイ・フセヴォローディチヴラディーミル系(フセーヴォロド大巣公の子)
1264-130412アンドレイ・アレクサンドロヴィチヴラディーミル系(アレクサンドル・ネフスキイの子)
1304-1113ミハイール・アンドレーエヴィチ?ヴラディーミル系
1311-13ボリース・ダニイーロヴィチヴラディーミル系(モスクワ系)(モスクワ公ダニイール・アレクサンドロヴィチの子)
1355-87/9314ボリース・コンスタンティーノヴィチヴラディーミル系(スーズダリ系)(スーズダリ公コンスタンティーン・ヴァシーリエヴィチの子)
1387-9315ヴァシーリイ・キルデャーパヴラディーミル系(スーズダリ系)
-143217ヤロスラーフ・アレクサンドロヴィチヴラディーミル系(トヴェーリ系)(トヴェーリ公アレクサンドル・イヴァーノヴィチの子)

ニージュニイ・ノーヴゴロド公 князь Нижегородский

 ニージュニイ・ノーヴゴロド Нижний Новгород は、ヴォルガ河とオカー河の合流地点の都市(ロシア連邦ニージュニイ・ノーヴゴロド州州都)。
 元来は «下流地方のノーヴゴロド Новгород Низовской земли» と名付けられていたが、のちにこれが «ニージュニイ・ノーヴゴロド(下のノーヴゴロド)» と改称された。«ニジェゴロド» と日本語で呼ばれることもあるが、これはロシア語の «ニージュニイ・ノーヴゴロドの» という意味の形容詞 «ニジェゴローツキイ Нижегородский» から日本人が勝手につくった造語。ロシア語に «ニジェゴロド» という名詞は存在しない。

 元来この地域はウラル系諸民族(特にモルドヴァー人)の居住地であった。ユーリイ・ドルゴルーキイ以降、代々のヴラディーミル大公がゴロデーツを拠点に積極的に東方に勢力を拡大し、1221年、ムーロムやゴロデーツよりも東に位置する、ルーシ最東端の拠点としてニージュニイ・ノーヴゴロドが建設された。チェレミース人やモルドヴァー人、ヴォルガ・ブルガールに対する最前線として、また同時にヴォルガとオカーの両交易路を押さえる通商拠点として急速に発展。
 13世紀以降ゴロデーツ公領として、14世紀半ばまであちこちの諸公の手を転々とする。しかしその間も都市としての発展は進み、14世紀初頭にはゴロデーツ公領の中心都市になっていたものと思われる。1311年にモスクワ公ユーリイ・ダニイーロヴィチが奪ったのはゴロデーツではなくニージュニイ・ノーヴゴロドと記されている。
 ゴロデーツ公領は最終的に1341年までにはスーズダリ公領に統合されたが、ニージュニイ・ノーヴゴロドはゴロデーツはおろかスーズダリをも凌駕する大都市に成長していた。1350年にはコンスタンティーン・ヴァシーリエヴィチがスーズダリからニージュニイ・ノーヴゴロドに居を移している。その子アンドレイ・コンスタンティーノヴィチも、この辺りはっきりしないところもあるが、当初はスーズダリに住んでいたものののちにニージュニイ・ノーヴゴロドに主都を遷している。
 以後、スーズダリ公領はスーズダリ=ニジェゴロド公領、あるいはニジェゴロド=スーズダリ公領と呼ばれるようになる。

 1355年のコンスタンティーン・ヴァシーリエヴィチの死で、あるいは1359年(まで)に、ニジェゴロド=スーズダリ公領は息子たちにより分割され、スーズダリ、ニージュニイ・ノーヴゴロド、ゴロデーツの3分領が成立する。このうち首座を占めたのがニージュニイ・ノーヴゴロド公領であった。
 スーズダリ公であったドミートリイ・コンスタンティーノヴィチがモスクワ公ドミートリイ・ドンスコーイとヴラディーミル大公位を争ったものの、それもあくまでもモスクワ公に対する当て馬であり、ニジェゴロド=スーズダリ公領が全体でまとまってもモスクワに抗することはできなかった。ドミートリイ・コンスタンティーノヴィチ自身、後半生においてはドミートリイ・ドンスコーイに従属している。
 1387年にはお定まりの叔父・甥間の継承争いが勃発。ドミートリイ・ドンスコーイの支援を得て叔父からニージュニイ・ノーヴゴロドを奪ったドミートリエヴィチ兄弟だったが、兄ヴァシーリイ・キルデャーパはスーズダリに住み、ニージュニイ・ノーヴゴロドは弟セミョーン・ドミートリエヴィチが領有したとする文献がある。いずれにせよ宗主としてのニジェゴロド=スーズダリ大公位は兄が持っていた。
 しかしかれらもモスクワ大公に従属する存在であった。1393年、モスクワ大公ヴァシーリイ1世がハーンからニージュニイ・ノーヴゴロドの領有を認めてもらう。そして武力でスーズダリ系一族を追い、ニージュニイ・ノーヴゴロドを併合した。

 以後スーズダリ系一族はシューヤの分領としてシュイスキイ公家となるが、文献によっては相変わらずスーズダリ公だのニージュニイ・ノーヴゴロド公だのと呼ばれていることもある。
 実際、かれらの中には «ヴォーッチナ(父祖伝来の地)» の奪回を試みた者もいる。なお、かれらが奪回を試みたのはいずれもニージュニイ・ノーヴゴロドであり、スーズダリではない。特に1395/99年、1411年から14年、1425年には、ニージュニイ・ノーヴゴロドを支配している。しかしいずれも、やがてモスクワ大公に粉砕され、ニージュニイ・ノーヴゴロドの独立回復は短い夢に終わっている。

1355-5914ドミートリイ・コンスタンティーノヴィチヴラディーミル系(スーズダリ系)(スーズダリ公コンスタンティーン・ヴァシーリエヴィチの子)
1359-6514アンドレイ・コンスタンティーノヴィチヴラディーミル系(スーズダリ系)
136514ボリース・コンスタンティーノヴィチヴラディーミル系(スーズダリ系)
1365-8314ドミートリイ・コンスタンティーノヴィチヴラディーミル系(スーズダリ系)兄/再任
1383-8714ボリース・コンスタンティーノヴィチヴラディーミル系(スーズダリ系)弟/再任
1387-9315ヴァシーリイ・キルデャーパヴラディーミル系(スーズダリ系)甥(ドミートリイの子)
1387-9315セミョーン・ドミートリエヴィチヴラディーミル系(スーズダリ系)
139314ボリース・コンスタンティーノヴィチヴラディーミル系(スーズダリ系)叔父/再任
15c.前半16ヴァシーリイ・セミョーノヴィチヴラディーミル系(スーズダリ系)(セミョーン・ドミートリエヴィチの子)
144617ヴァシーリイ・ユーリエヴィチ・シュイスキイヴラディーミル系(スーズダリ系)(ヴァシーリイ・キルデャーパの孫)
144617フョードル・ユーリエヴィチ・シュイスキイヴラディーミル系(スーズダリ系)
-145817イヴァン・ゴルバートィイヴラディーミル系(スーズダリ系)(ヴァシーリイ・セミョーノヴィチの子)

シューヤ公 князь Шуйский

 シューヤ Шуя はイヴァーノヴォ南東の都市(ロシア連邦イヴァーノヴォ州)。
 都市としてのシューヤが初めて文献に登場するのは1539年。しかしそれ以前から «シューヤ公(クニャージ・シュイスキイ)» という言葉は登場しているので、シューヤそのものの起源も少なくとも14世紀末までは遡ることができるはずである。考古学的には10世紀にまで遡り得る墳墓も近郊から発掘されているので、かなり古くから集落が存在しただろうと推測される。
 スーズダリ公領の分領。とはいえ、独立の分領としては発展しなかった。ニージュニイ・ノーヴゴロドとスーズダリをモスクワ大公ヴァシーリイ1世に奪われたヴァシーリイ・キルデャーパとその弟セミョーン・ドミートリエヴィチが、代償としてスーズダリ公領の北のはずれに位置したシューヤを与えられたものと思われる。ふたりの子孫をシュイスキイ家と呼ぶが、分領としていつまで存続したのかは不明。1606年から1610年までツァーリとなったヴァシーリイ・シュイスキイはその末裔。

1393-140315ヴァシーリイ・キルデャーパヴラディーミル系(スーズダリ系)(ヴラディーミル大公ドミートリイ・コンスタンティーノヴィチの子)
-144617ヴァシーリイ и フョードル・ユーリエヴィチヴラディーミル系(スーズダリ系)

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最終更新日 14 03 2012

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