ルーシ諸公

セーヴェルスカヤ・ゼムリャー Северская земля

セーヴェルスカヤ・ゼムリャーとは、この地域に住んでいたセヴェリャーネ人の土地を意味する。通常チェルニーゴフ公領とノーヴゴロド=セーヴェルスキイ公領とに分けられるが、区別しない方がいいと思うので、ここでは特に区別していない。
 西はドニェプル河をはさんでトゥーロフ公領とキエフ公領、北はロストーフ公領とスモレンスク公領、南はペレヤスラーヴリ公領、東はムーロム公領と遊牧民族の住むステップにそれぞれ接している。
 その領域は、現在の地理で言うと、ウクライナ共和国のチェルニーゴフ州・スームィ州の北半、ベラルーシ共和国のゴメリ州西部、ロシア連邦のカルーガ州、トゥーラ州、ブリャンスク州、オリョール州、クールスク州、さらにはモスクワ州の一部にも及んでいる。実はその領土の大半はウクライナではなくロシアにあった。
 なお、北東部、現在の地理で言うとロシア連邦のカルーガ州、トゥーラ州、オリョール州、モスクワ州の一部、さらにはリャザニ州にかけての地域に住んでいたのはセヴェリャーネ人ではなくヴャーティチ人である。よってこの地域をヴャーツカヤ・ゼムリャーと呼ぶが、その後政治的にセーヴェルスカヤ・ゼムリャーに統合されているので、ここでは特に区別しない。

 セヴェリャーネ人は882年にオレーグがキエフを占領した際に、その従属下に入った。その後キエフ周辺のポリャーネ人、スモレンスク周辺のクリヴィチー人やラディーミチ人、ノーヴゴロド周辺のスロヴェーネ人などとともに、キエフ・ルーシの核を形成していくことになる。
 なお、ヴャーティチ人がキエフ・ルーシの版図に組み込まれるのは遅く、スヴャトスラーフ・イーゴレヴィチがかれらを屈服させていたものの、11世紀末まで部族的まとまりと半独立を維持した。
 チェルニーゴフは907年にはセヴェリャーネ人の都市として年代記に登場。ちなみにノーヴゴロド=セーヴェルスキイとプティーヴリは989年、クールスクは11世紀に、ブリャンスクに至っては12世紀に入ってからである。しかしセーヴェルスカヤ・ゼムリャーがキエフに隣接していたためか、ここが独自の公領となったのは比較的遅かった。
 初代の公となったムスティスラーフ勇敢公は、おそらくまだヴャーツカヤ・ゼムリャーは支配していなかったろうが、ドニェプル河をはさんでキエフ・ルーシをキエフ大公ヤロスラーフ賢公と分割し、少なくともセーヴェルスカヤ・ゼムリャーを統一的に支配した。
 ムスティスラーフ勇敢公の死後ヤロスラーフ賢公に統合されたとはいえ、セーヴェルスカヤ・ゼムリャーはヤロスラーフ賢公の死後スヴャトスラーフ・ヤロスラーヴィチの領土として再び分離される。ヴャーツカヤ・ゼムリャーはおそらくこの頃徐々に鎮定されていったのだろう。スヴャトスラーフ・ヤロスラーヴィチは、おそらく、ヴャーツカヤ・ゼムリャーのさらに向こうにあるムーロム公領をも支配したのではないかと思われる。
 その後20年間にわたってセーヴェルスカヤ・ゼムリャーはモノマーシチの領土となる。しかしモノマーシチによってほかに領土を与えられなかったスヴャトスラーヴィチ兄弟にとっては、セーヴェルスカヤ・ゼムリャーだけが«ヴォーッチナ(父祖伝来の地)»であり、このためしばらくモノマーシチ一族とスヴャトスラーヴィチ兄弟によってセーヴェルスカヤ・ゼムリャーは激しく争われる。最終的には1097年のリューベチ会議でセーヴェルスカヤ・ゼムリャーは(ヴャーツカヤ・ゼムリャーも含めて)スヴャトスラーヴィチ兄弟の«ヴォーッチナ»として認められた。なおこの時一時的にクールスクに公が立っていたようにも思われるが、詳細は不明。

 なお、厳密に言うと、この時成立したセーヴェルスカヤ・ゼムリャーは、セヴェリャーネ人の故地が核となってはいたが、ポリャーネ人、ラディーミチ人、ドレゴヴィチー人などの領土も含むものだった。
 スヴャトスラーヴィチ兄弟はヴォーッチナを分割。ダヴィドがチェルニーゴフ公領、オレーグがノーヴゴロド=セーヴェルスキイ公領、ヤロスラーフがムーロム公領を領有した。こうしてセーヴェルスカヤ・ゼムリャーはふたつに分けられた(ムーロム公領はセーヴェルスカヤ・ゼムリャーではない)。それぞれの領域は時代によって違ったりもしたが、おおまかに言うとセーヴェルスカヤ・ゼムリャーの西部と北部、ヴャーツカヤ・ゼムリャーがチェルニーゴフ公領となり、ノーヴゴロド=セーヴェルスキイ公領(単純にセーヴェルスキイ公領とも)は西と北をチェルニーゴフ公領に、南をペレヤスラーヴリ公領に囲まれ、クールスクの東方でステップと接していた。純粋なセヴェリャーネ人の地は、ほぼセーヴェルスキイ公領となった。
 ただし、チェルニーゴフ公領とセーヴェルスキイ公領とは完全に分離したとは言えない。スヴャトスラーヴィチ一族(のちにはオーリゴヴィチ一族)の最年長者がチェルニーゴフ公、次の年長者がノーヴゴロド=セーヴェルスキイ公になる、という慣習がしばらく続いたからである(おそらく13世紀初頭まで)。つまりノーヴゴロド=セーヴェルスキイは、独立の公領でもなければチェルニーゴフ公領内の分領でもなく、次期チェルニーゴフ公たる者が最年長者が死ぬまでの間順番待ちをするためのポストだったと言えるだろう。
 12世紀中に成立したとされる分領はいくつかあるが、どうやらいずれも長続きしなかったか、あるいは文献史料の欠落から確実なことは言えない状況にある。スヴャトスラーヴィチ一族(オーリゴヴィチ一族)の特殊事情もあったにせよ、セーヴェルスカヤ・ゼムリャーは強力な指導力を発揮するチェルニーゴフ公によって統一的に支配されていたと思われる。

 セーヴェルスカヤ・ゼムリャーと言うよりは、ここを支配したオーリゴヴィチ一族の特徴は、ひとつにはキエフ大公位に執着し、スモレンスク系一族とともに最も執拗にキエフ大公位を狙ったことが挙げられる。
 もうひとつは、ポーロヴェツ人とのつきあいが深かったことだろう。もちろんポーロヴェツ人とは、他の系統の諸公も深いつながりを持っていたが、オーリゴヴィチ一族ほど、他の諸公との争いにポーロヴェツ人をしばしば動員した一族はいない。
 いずれもセーヴェルスカヤ・ゼムリャーの支配者として、地政学的に当然の結果ではあったろう。

 1238年、北東ルーシ(ヴラディーミル大公領)を蹂躙したモンゴル軍が、南ステップへ帰りがけの駄賃にセーヴェルスカヤ・ゼムリャーの北部を蹂躙。1239年には本格的にセーヴェルスカヤ・ゼムリャーに侵攻し、チェルニーゴフを含む諸都市は徹底的に破壊された。
 ロスティスラーフ・ミハイロヴィチはチェルニーゴフ公位を棄ててガーリチへ。ミハイール・フセヴォローディチがサライで殺されると、跡を継ぐべきロマーン老公はチェルニーゴフではなくブリャンスクに居住した。弟たちも挙ってかつてのヴャーツカヤ・ゼムリャーへと避難し、セーヴェルスカヤ・ゼムリャーの中心部は荒廃。事実上、英語で言う «No-man's land(無主の地)» と化したと言っていいだろう。チェルニーゴフには公が立ったものの、もはやセーヴェルスカヤ・ゼムリャーの諸公をその宗主権下に置くことができず、チェルニーゴフ公領とセーヴェルスキイ公領は完全に崩壊した。

 14世紀に入ると、ブリャンスク公位もおそらくスモレンスク系に奪われたものと思われる(かと言って必ずしもスモレンスク公領になったとは言えない)。
 北西からはポーロツク公領、ヴォルィニ公領、トゥーロフ=ピンスク公領へと領土を拡大したリトアニアが進出。1355年から63年にかけて、スモレンスク公領南部、キエフ公領、ペレヤスラーヴリ公領、そしてセーヴェルスカヤ・ゼムリャーのほとんどが征服された。
 唯一、旧ヴャーツカヤ・ゼムリャーに散在した上流諸公領がかろうじて独立を維持した。それも1404年に残るスモレンスク公領がリトアニア領となると、その圧力に屈していく。ただし形式上の独立は維持されたらしい。1494年、最終的にこれら上流諸公領はモスクワ大公領となった。

チェルニーゴフ公 князь Черниговский

 チェルニーゴフ Чернигов はキエフ北東の都市(ウクライナ共和国チェルニーゴフ州州都)。
 年代記への初出は907年。決して早くはないが、すでにセヴェリャーネ人の中心都市であった。991年、ノーヴゴロド、キエフに次いで、主教座が設置される(ロストーフ、ヴラディーミル=ヴォルィンスキイとともに)。
 かつてのセヴェリャーネ人の地(セーヴェルスカヤ・ゼムリャー)の中心都市であり、しかもキエフに隣接した地理的な有利さもあって、公が立てられたのは比較的遅かったとはいえ、以後諸公位の中でも最上位に位置づけられていたと言っていいだろう(スヴャトスラーフ・ヤロスラーヴィチもフセーヴォロド・ヤロスラーヴィチもキエフ大公のすぐ下の弟、ヴラディーミル・モノマーフはキエフ大公の長男)。
 しかしスヴャトスラーフ・ヤロスラーヴィチの子らがその領有を巡ってフセーヴォロド & ヴラディーミル父子と対立。最終的に1097年のリューベチ会議でスヴャトスラーヴィチの «ヴォーッチナ» として認められた。
 以後、リューリク・ロスティスラーヴィチを除いてスヴャトスラーヴィチが世襲(リューリク・ロスティスラーヴィチがチェルニーゴフ公になったについては異説もある)。おそらくは1223年のカルカ河畔の戦いまで100年以上にわたって、スヴャトスラーヴィチ(のちオーリゴヴィチ)の最年長者がチェルニーゴフ公になるという不文律が維持され、セーヴェルスカヤ・ゼムリャーの最高主権者、オーリゴヴィチ一族の宗主として大きな影響力を有した。
 モンゴルの襲来で破壊され、以後かつての繁栄は失われた。政治的な影響力もなくなり、いったんはブリャンスク公ロマーン老公が公位を獲得したものの、それ以降はよくわからない(ロマーン・ミハイロヴィチもチェルニーゴフ公ではなくブリャンスク・チェルニーゴフ公と呼ばれる)。
 なお、いつの頃からか(おそらくはモンゴル襲来後)大公を自称している。

1024-365ムスティスラーフ勇敢公リューリコヴィチ(ヴラディーミル偉大公の子)
1054-736スヴャトスラーフ・ヤロスラーヴィチスヴャトスラーヴィチ甥(ヤロスラーフ賢公の子)
1073-786フセーヴォロド・ヤロスラーヴィチモノマーシチ
10787ボリース・ヴャチェスラーヴィチリューリコヴィチ
1078-937ヴラディーミル・モノマーフモノマーシチ従兄弟(フセーヴォロト・ヤロスラーヴィチの子)
1094-977オレーグ・ゴリスラーヴィチスヴャトスラーヴィチ(オーリゴヴィチ)(スヴャトスラーフ・ヤロスラーヴィチの子)
1097-11237ダヴィド・スヴャトスラーヴィチスヴャトスラーヴィチ(ダヴィドヴィチ)
1123-277ヤロスラーフ・スヴャトスラーヴィチスヴャトスラーヴィチ(ムーロム系)
1127-398フセーヴォロド・オーリゴヴィチスヴャトスラーヴィチ(オーリゴヴィチ/チェルニーゴフ系)甥(オレーグ・ゴリスラーヴィチの子)
1139-518ヴラディーミル・ダヴィドヴィチスヴャトスラーヴィチ(ダヴィドヴィチ)従兄弟(ダヴィド・スヴャトスラーヴィチの子)
1152-548イジャスラーフ・ダヴィドヴィチスヴャトスラーヴィチ(ダヴィドヴィチ)
1154-558スヴャトスラーフ・オーリゴヴィチスヴャトスラーヴィチ(オーリゴヴィチ/セーヴェルスキイ系)従兄弟(オレーグ・ゴリスラーヴィチの子)
1155-578イジャスラーフ・ダヴィドヴィチスヴャトスラーヴィチ(ダヴィドヴィチ)従兄弟/再任
1157-648スヴャトスラーフ・オーリゴヴィチスヴャトスラーヴィチ(オーリゴヴィチ/セーヴェルスキイ系)従兄弟/再任
1164-779スヴャトスラーフ・フセヴォローディチスヴャトスラーヴィチ(オーリゴヴィチ/チェルニーゴフ系)甥(フセーヴォロド・オーリゴヴィチの子)
1177-989ヤロスラーフ・フセヴォローディチスヴャトスラーヴィチ(オーリゴヴィチ/チェルニーゴフ系)
1198-12029イーゴリ・スヴャトスラーヴィチスヴャトスラーヴィチ(オーリゴヴィチ/セーヴェルスキイ系)従兄弟(«イーゴリ公»)
1202-0410オレーグ・スヴャトスラーヴィチスヴャトスラーヴィチ(オーリゴヴィチ/チェルニーゴフ系)(スヴャトスラーフ・フセヴォローディチの子)
1204-1010フセーヴォロド真紅公スヴャトスラーヴィチ(オーリゴヴィチ/チェルニーゴフ系)
1210-1410リューリク・ロスティスラーヴィチモノマーシチ(スモレンスク系)(スモレンスク公ロスティスラーフ・ムスティスラーヴィチの子)
121410フセーヴォロド真紅公スヴャトスラーヴィチ(オーリゴヴィチ/チェルニーゴフ系)再任
121410リューリク・オーリゴヴィチスヴャトスラーヴィチ(オーリゴヴィチ/チェルニーゴフ系)甥(オレーグ・スヴャトスラーヴィチの子)
1214-1910グレーブ・スヴャトスラーヴィチスヴャトスラーヴィチ(オーリゴヴィチ/チェルニーゴフ系)叔父
1219-2310ムスティスラーフ・スヴャトスラーヴィチスヴャトスラーヴィチ(オーリゴヴィチ/チェルニーゴフ系)
1223-11オレーグ・クールスキイスヴャトスラーヴィチ(オーリゴヴィチ/セーヴェルスキイ系)(クールスク公スヴャトスラーフ・イーゴレヴィチの子)?
1224-3611ミハイール・フセヴォローディチスヴャトスラーヴィチ(オーリゴヴィチ/チェルニーゴフ系)(フセーヴォロド真紅公の子)
1236-3911ムスティスラーフ・グレーボヴィチスヴャトスラーヴィチ(オーリゴヴィチ/チェルニーゴフ系)従兄弟(グレーブ・スヴャトスラーヴィチの子)
1240-4312ロスティスラーフ・ミハイロヴィチスヴャトスラーヴィチ(オーリゴヴィチ/チェルニーゴフ系)(ミハイール・フセヴォローディチの子)
1243-4611ミハイール・フセヴォローディチスヴャトスラーヴィチ(オーリゴヴィチ/チェルニーゴフ系)父/再任
124612アンドレイ・ムスティスラーヴィチスヴャトスラーヴィチ(オーリゴヴィチ/セーヴェルスキイ系)(ルィリスク公ムスティスラーフ・スヴャトスラーヴィチの子)
1246-6111フセーヴォロド・ヤロポールチチスヴャトスラーヴィチ(オーリゴヴィチ/チェルニーゴフ系)(ヤロスラーフ・フセヴォローディチの孫)
1261-6311アンドレイ・フセヴォローディチスヴャトスラーヴィチ(オーリゴヴィチ/チェルニーゴフ系)子? フセーヴォロド真紅公の子?
1263-8812ロマーン老公スヴャトスラーヴィチ(オーリゴヴィチ/チェルニーゴフ系)甥?(ミハイール・フセヴォローディチの子)
1288-13オレーグ・ロマーノヴィチスヴャトスラーヴィチ(オーリゴヴィチ/チェルニーゴフ系)
13ミハイール・ロマーノヴィチスヴャトスラーヴィチ(オーリゴヴィチ/チェルニーゴフ系)
-137014ロマーン・ミハイロヴィチスヴャトスラーヴィチ(オーリゴヴィチ/チェルニーゴフ系)子?
1393-140114ロマーン・ミハイロヴィチスヴャトスラーヴィチ(オーリゴヴィチ/チェルニーゴフ系)再任

ノーヴゴロド=セーヴェルスキイ公 князь Новгород-Северский

 ノーヴゴロド=セーヴェルスキイ Новгород-Северский はチェルニーゴフの北東に位置する、デスナー河畔の都市(ウクライナ共和国チェルニーゴフ州)。
 年代記への初登場は、チェルニーゴフよりも80年遅い989年だが、ともにセヴェリャーネ人の地(セーヴェルスカヤ・ゼムリャー)の中心都市として発展した。
 1097年、リューベチ会議でセーヴェルスカヤ・ゼムリャーがスヴャトスラーヴィチ兄弟の «ヴォーッチナ» として認められると、チェルニーゴフをダヴィド・スヴャトスラーヴィチに譲ったオレーグ・スヴャトスラーヴィチがノーヴゴロド=セーヴェルスキイ公となった。しかしこれでノーヴゴロド=セーヴェルスキイ公領(セーヴェルスキイ公領 Северское княжество)が独立の分領になったかと言うと、とうていそうは言えない。オレーグ・スヴャトスラーヴィチ死後はチェルニーゴフ公領に統合され、いったん分領は消滅している。
 1141年、キエフ大公フセーヴォロド・オーリゴヴィチによりセーヴェルスカヤ・ゼムリャーは分割され、スヴャトスラーフ・オーリゴヴィチがノーヴゴロド=セーヴェルスキイ公となる。セーヴェルスキイ公領の分領としての歴史はここから始まると言うべきだろう。
 ところがその後、ノーヴゴロド=セーヴェルスキイ公位は特異な位置づけを与えられる。すなわち、オーリゴヴィチ一族の最年長者がチェルニーゴフ公になるのに対して、次の年長者がノーヴゴロド=セーヴェルスキイ公になるという慣習が生まれるのである(ダヴィドとオレーグのスヴャトスラーヴィチ兄弟からしておそらくそういう関係にあった)。そのため、チェルニーゴフ公が死ぬとノーヴゴロド=セーヴェルスキイ公がチェルニーゴフ公となり、ノーヴゴロド=セーヴェルスキイ公にはそれまで第3の年長であった者が自動的に繰り上がる。
 これではセーヴェルスキイ公領は、とうてい独立した公領とは言えない。そのためここではチェルニーゴフ公領とあわせてセーヴェルスカヤ・ゼムリャーとして扱っているわけである。なお、1198年以降のノーヴゴロド=セーヴェルスキイ公に関しては、オレーグ・スヴャトスラーヴィチの項で異説を紹介しているので、そちらも参照してもらいたい。
 とはいえ、強いて言うならば、次のような特性が挙げられるだろう。すなわち、セーヴェルスキイ公領は西と北をチェルニーゴフ公領に囲まれ、南にはペレヤスラーヴリ公領があったが、東方でステップのポーロヴェツ人と接しており、ペレヤスラーヴリ公領とともに対ポーロヴェツ戦の最前線に位置していた。『イーゴリ軍記』で有名なイーゴリ公がノーヴゴロド=セーヴェルスキイ公であったというのは偶然ではない。
 モンゴルの襲来により荒廃し、以後はおそらく独自の公はいない。その直系はクールスク公になったと思われるが、ノーヴゴロド=セーヴェルスキイ自体はブリャンスク公領の一部となり、セーヴェルスキイ公領は空中分解した。
 1356年、リトアニア大公アルギルダスに征服される。リトアニア治下で、スタロドゥーブ、トルブチェフスクとともにセーヴェルスカヤ・ゼムリャーの中心都市として再発展。

1097-11157オレーグ・ゴリスラーヴィチオーリゴヴィチ(キエフ大公スヴャトスラーフ・ヤロスラーヴィチの子)
1141-578スヴャトスラーフ・オーリゴヴィチオーリゴヴィチ(セーヴェルスキイ系)
1157-649スヴャトスラーフ・フセヴォローディチオーリゴヴィチ(チェルニーゴフ系)
1164-809オレーグ・スヴャトスラーヴィチオーリゴヴィチ(セーヴェルスキイ系)従兄弟(スヴャトスラーフ・オーリゴヴィチの子)
1180-989イーゴリ・スヴャトスラーヴィチオーリゴヴィチ(セーヴェルスキイ系)弟(«イーゴリ公»)
1198-120610ヴラディーミル・イーゴレヴィチオーリゴヴィチ(セーヴェルスキイ系)
-123511イジャスラーフ・ヴラディーミロヴィチオーリゴヴィチ(セーヴェルスキイ系)
1377-79ドミートリイ(異教名カリブタスゲディミノヴィチ(リトアニア大公アルギルダスの子)
1381-93ドミートリイ(異教名カリブタスゲディミノヴィチ再任
1393-1405フョードル・リュバルトヴィチゲディミノヴィチ従兄弟(ヴォルィニ公リウバルタスの子)
1405-08ボレスラーフ(異教名シュヴィトリガイラゲディミノヴィチ(リトアニア大公アルギルダスの子)
1419-30ボレスラーフ(異教名シュヴィトリガイラゲディミノヴィチ再任
1454-19イヴァン・ドミートリエヴィチ・シェミャーキンモノマーシチ(モスクワ系)(ドミートリイ・シェミャーカの子)
-152319ヴァシーリイ・イヴァーノヴィチ・シェミャーチチモノマーシチ(モスクワ系)

クールスク公 князь Курский

 クールスク Курск は南ロシアの都市(ロシア連邦クールスク州州都)。
 セーヴェルスカヤ・ゼムリャーの南東の端に位置し、ステップとの文字通り最前線にあたる。このためチェルニーゴフに次いで早くから独自の公が立てられており、セイム流域(ポセーミエ)と併せて、当初はセーヴェルスカヤ・ゼムリャーには属していなかった。12世紀前半にはチェルニーゴフのオーリゴヴィチと北東ルーシのモノマーシチとの間で激しく争奪戦が行われたが、1148年になって最終的にオーリゴヴィチの手に帰す。以後、クールスクはセーヴェルスカヤ・ゼムリャー第三の都市として発展(1149年以降はノーヴゴロド=セーヴェルスキイ公領)。ただしオーリゴヴィチ一族の目が西(キエフやガーリチ)に向いたこともあってか、必ずしも分領になってはいない。1238年、モンゴルにより破壊される。1363年、リトアニアに併合される。

-10958イジャスラーフ・ヴラディーミロヴィチモノマーシチ(ヴラディーミル・モノマーフの子)
1125-299イジャスラーフ・ムスティスラーヴィチモノマーシチ(ヴォルィニ系)甥(ムスティスラーフ偉大公の子)
1135-388グレーブ・オーリゴヴィチオーリゴヴィチ(オレーグ・ゴリスラーヴィチの子)
1138-398スヴャトスラーフ・オーリゴヴィチオーリゴヴィチ(セーヴェルスキイ系)
11469イヴァン・ユーリエヴィチモノマーシチ(ヴラディーミル系)(ユーリイ・ドルゴルーキイの子)
11479グレーブ・ユーリエヴィチモノマーシチ(ヴラディーミル系)
-120610スヴャトスラーフ・イーゴレヴィチオーリゴヴィチ(セーヴェルスキイ系)(«イーゴリ公» の子)
1207-11オレーグ・スヴャトスラーヴィチオーリゴヴィチ(セーヴェルスキイ系)
1230s12ユーリイ・オーリゴヴィチオーリゴヴィチ(セーヴェルスキイ系)
13c.半ば11ドミートリイ・スヴャトスラーヴィチオーリゴヴィチ(セーヴェルスキイ系)叔父
-127812ヴァシーリイ・ドミートリエヴィチオーリゴヴィチ(セーヴェルスキイ系)

ヴシチージュ公 князь Вщижский

 ヴシチージュ Вщиж はブリャンスク北西のデスナー河畔の都市(ロシア連邦ブリャンスク州)。
 ブリャンスクも含む。

1157-679スヴャトスラーフ・ヴラディーミロヴィチスヴャトスラーヴィチ(ダヴィドヴィチ)(チェルニーゴフ公ヴラディーミル・ダヴィドヴィチの子)

ロプニャ公 князь Ропенский

 ロプニャ Ропня がどこにあったかわからない。

11589ヤロスラーフ・フセヴォローディチオーリゴヴィチ(チェルニーゴフ系)(チェルニーゴフ公フセーヴォロド・オーリゴヴィチの子)

コゼリスク公 князь Козельский

 コゼリスク Козельск はカルーガ南西の都市(ロシア連邦カルーガ州)。
 年代記への初出は1146年。チェルニーゴフ公領の分領となったが、モンゴルの襲来で崩壊。その後再建され、カラーチェフ公領となり、ティート・ムスティスラーヴィチの死後、分領となった。さらにロマーン・イヴァーノヴィチによりペレムィシュリ公領を合併。その子孫による支配が続いたが、1445年にモスクワ大公領に併合された。

-119810フセーヴォロド真紅公オーリゴヴィチ(チェルニーゴフ系)(チェルニーゴフ公スヴャトスラーフ・フセヴォローディチの子)
-121910ムスティスラーフ・スヴャトスラーヴィチオーリゴヴィチ(チェルニーゴフ系)
-123811イヴァン・ムスティスラーヴィチオーリゴヴィチ(チェルニーゴフ系)
1238頃12ヴァシーリイ・イヴァーノヴィチオーリゴヴィチ(チェルニーゴフ系)
13ティート・ムスティスラーヴィチオーリゴヴィチ(カラーチェフ系)(カラーチェフ公ムスティスラーフ・ミハイロヴィチの子)
14フョードル・ティートヴィチオーリゴヴィチ(カラーチェフ系)
15ロマーン・イヴァーノヴィチオーリゴヴィチ(カラーチェフ系)

スタロドゥーブ公 князь Стародубский

 スタロドゥーブ Стародуб はブリャンスク南西の都市(ロシア連邦ブリャンスク州)。
 12世紀末からチェルニーゴフ公領の分領になっていたとする説もある。もっとも、これは、ほかにめぼしい分領となり得る都市が見当たらなかった学者がそう考えているだけではないだろうか。

1198-120210フセーヴォロド真紅公オーリゴヴィチ(チェルニーゴフ系)(チェルニーゴフ公スヴャトスラーフ・フセヴォローディチの子)
1357-87パトリケイ・ナリムントヴィチゲディミノヴィチ(ピンスク公ナリマンタスの子)
アレクサンドル・パトリケーエヴィチゲディミノヴィチ
1388-97ドミートリイ・オリゲルドヴィチゲディミノヴィチ(リトアニア大公アルギルダスの子)
1398-1432シギズムント(本名ジギマンタスゲディミノヴィチ従兄弟(リトアニア大公ケーストゥティスの子)
-150518セミョーン・イヴァーノヴィチモノマーシチ(モスクワ系)(モジャイスク公イヴァン・アンドレーエヴィチの子)
-151719ヴァシーリイ・セミョーノヴィチ・トゥルプモノマーシチ(モスクワ系)

ルィリスク公 князь Рыльский

 ルィリスク Рыльск はノーヴゴロド=セーヴェルスキイとクールスクのほぼ中間(やや南寄り)に位置するセイム河畔の都市(ロシア連邦クールスク州)。
 ノーヴゴロド=セーヴェルスキイ公領の主な分領のひとつ。12世紀後半にはノーヴゴロド=セーヴェルスキイ公領からいくつかの分領が分かれたと考えられるが、ルィリスク公領もそのひとつ。1360年代にリトアニア領に。1523年、ロシアに併合される。

12c.末10スヴャトスラーフ・オーリゴヴィチオーリゴヴィチ(セーヴェルスキイ系)(セーヴェルスキイ公オレーグ・スヴャトスラーヴィチの子)
-124111ムスティスラーフ・スヴャトスラーヴィチオーリゴヴィチ(セーヴェルスキイ系)
1240s12アンドレイ・ムスティスラーヴィチオーリゴヴィチ(セーヴェルスキイ系)
-128512オレーグ・ムスティスラーヴィチオーリゴヴィチ(セーヴェルスキイ系)
1370-フョードル・オリゲルドヴィチゲディミノヴィチ(リトアニア大公アルギルダスの子)
-1399フョードル・パトリケーエヴィチゲディミノヴィチ(スタロドゥーブ公パトリケイの子)
1454-19イヴァン・シェミャーキンモノマーシチ(モスクワ系)(ドミートリイ・シェミャーカの子)
-152319ヴァシーリイ・シェミャーチチモノマーシチ(モスクワ系)

プティーヴリ公 князь Путивльский

 プティーヴリ Путивль はノーヴゴロド=セーヴェルスキイ南東のセイム河畔の都市(ウクライナ共和国スームィ州)。
 ノーヴゴロド=セーヴェルスキイ公領。1185年、ヤロスラーヴナがポーロヴェツ人の捕虜となった夫イーゴリ公(当時ノーヴゴロド=セーヴェルスキイ公)を思ってプティーヴリの城壁上で嘆くシーンは『イーゴリ軍記』の最も感動的な場面である。

1185-9810ヴラディーミル・イーゴレヴィチオーリゴヴィチ(セーヴェルスキイ系)(«イーゴリ公» の子)
1198-120610ロマーン・イーゴレヴィチオーリゴヴィチ(セーヴェルスキイ系)
1207-0810ヴラディーミル・イーゴレヴィチオーリゴヴィチ(セーヴェルスキイ系)兄/再任
13c.半ば11イヴァン・ロマーノヴィチオーリゴヴィチ(セーヴェルスキイ系)甥(ロマーン・イヴァーノヴィチの子)
13c.末12イヴァン・イヴァーノヴィチオーリゴヴィチ(セーヴェルスキイ系)
-1330s13ヴラディーミル・イヴァーノヴィチオーリゴヴィチ(セーヴェルスキイ系)
-1360s13フョードル・イヴァーノヴィチオーリゴヴィチ(セーヴェルスキイ系)

トルブチェフスク公 князь Трубчевский

 トルブチェフスク Трубчевск はウクライナとの国境にほど近い、ブリャンスク南西のデスナー河畔の都市(ロシア連邦ブリャンスク州)。歴史的にさまざまな呼び名がある。
 ノーヴゴロド=セーヴェルスキイ公領の分領。おそらくモンゴルの襲来後、ブリャンスク公領に併合されたと思われる。1357年にはゲディミノヴィチの下で分領として復活。1566年、ロシアに併合された。当時はトルベツコーイ公と呼ばれていたらしく、その末裔はロシア貴族となった(トルベツコーイ家)。

-11969フセーヴォロド・スヴャトスラーヴィチオーリゴヴィチ(セーヴェルスキイ系)(«イーゴリ公»の弟)
-123210スヴャトスラーフ・フセヴォローディチオーリゴヴィチ(セーヴェルスキイ系)
1232-10アンドレイ・スヴャトスラーヴィチオーリゴヴィチ(セーヴェルスキイ系)
1357-79ドミートリイ・オリゲルドヴィチゲディミノヴィチ(リトアニア大公アルギルダスの子)
1377-93ドミートリイ(異教名カリブタスゲディミノヴィチ
1420-38ボレスラーフ(異教名シュヴィトリガイラゲディミノヴィチ
ミハイール・ドミートリエヴィチゲディミノヴィチ(トルベツコーイ家)甥(ドミートリイの子)
セミョーン・ミハイロヴィチゲディミノヴィチ(トルベツコーイ家)
-1499イヴァン・セミョーノヴィチゲディミノヴィチ(トルベツコーイ家)
1499-1546アンドレイ・イヴァーノヴィチゲディミノヴィチ(トルベツコーイ家)
1499-1538イヴァン・イヴァーノヴィチゲディミノヴィチ(トルベツコーイ家)
1499-1540フョードル・イヴァーノヴィチゲディミノヴィチ(トルベツコーイ家)
1520-66セミョーン・イヴァーノヴィチゲディミノヴィチ(トルベツコーイ家)
1546-66ミハイール・アンドレーエヴィチゲディミノヴィチ(トルベツコーイ家)甥(アンドレイ・イヴァーノヴィチの子)
-1445ユーリイ・ミハイロヴィチゲディミノヴィチ(トルベツコーイ家)(ミハイール・ドミートリエヴィチの子)
1445-89イヴァン・ヴァシーリエヴィチゲディミノヴィチ(チャルトルィスキ家)
1499-1520イヴァン・ユーリエヴィチゲディミノヴィチ(トルベツコーイ家)(ユーリイ・ミハイロヴィチの子)
1520-43セミョーン・アレクサンドロヴィチゲディミノヴィチ(トルベツコーイ家)

スノフスク公 князь Сновский

 スノフスク Сновск (現名シチョルス Щорс)はチェルニーゴフ近郊(北東)にある、スノフ河畔の都市(ウクライナ共和国チェルニーゴフ州)。ただしこの都市は20世紀になってできたもの。

-121510ロスティスラーフ・ヤロスラーヴィチオーリゴヴィチ(チェルニーゴフ系)(チェルニーゴフ公ヤロスラーフ・フセヴォローディチの子)

ブリャンスク公 князь Брянский

 ブリャンスク Брянск はキエフとモスクワのちょうど中間辺りに位置する都市(ロシア連邦ブリャンスク州州都)。
 チェルニーゴフのはるか北東、ノーヴゴロト=セーヴェルスキイよりもさらに北東に位置する。近隣のヴシチージュが分領となった際にはその一部とされた。
 モンゴル襲来後、荒廃した都市チェルニーゴフに代わり、ロマーン老公によってセーヴェルスカヤ・ゼムリャーの中心となる。しかしチェルニーゴフ系とスモレンスク系の争いの焦点となり、旧チェルニーゴフ系を糾合することができなかった。なお、下記の表ではヴァシーリイ・アレクサンドロヴィチ以下スモレンスク系としているが、必ずしも出自がはっきりしているわけではない。
 1357年以前の歴代公について、疑わしいものも含めた一覧表をスモレンスク大公アレクサンドル・グレーボヴィチにまとめておいた。
 1356年にはリトアニアの攻撃を受け、併合された。その後もリトアニア大公支配下の公領として存続したが、ヴァシーリイ・アレクサンドロヴィチがリトアニアとの戦いで戦死し、公領は存在をやめた。1500年、モスクワに併合される。

1246-8812ロマーン・ミハイロヴィチ老公オーリゴヴィチ(チェルニーゴフ系)(チェルニーゴフ公ミハイール・フセヴォローディチの子)
1288-13オレーグ・ロマーノヴィチオーリゴヴィチ(チェルニーゴフ系)
13ミハイール・ロマーノヴィチオーリゴヴィチ(チェルニーゴフ系)
-130915ヴァシーリイ・アレクサンドロヴィチモノマーシチ(スモレンスク系)(スモレンスク公アレクサンドル・グレーボヴィチの子)
1309-1014スヴャトスラーフ・グレーボヴィチモノマーシチ(スモレンスク系)叔父
1310-1415ヴァシーリイ・アレクサンドロヴィチモノマーシチ(スモレンスク系)甥/再任
1314-15ドミートリイ・アレクサンドロヴィチモノマーシチ(スモレンスク系)
-134015グレーブ・スヴャトスラーヴィチモノマーシチ(スモレンスク系)従兄弟(スヴャトスラーフ・グレーボヴィチの子)
-1357/7014ロマーン・ミハイロヴィチオーリゴヴィチ(チェルニーゴフ系)(チェルニーゴフ公ミハイール・アレクサンドロヴィチの子)?
1357-79ドミートリイ・オリゲルドヴィチゲディミノヴィチ(リトアニア大公アルギルダスの子)
フョードル・オリゲルドヴィチゲディミノヴィチ
1388-99ドミートリイ・オリゲルドヴィチゲディミノヴィチ兄/再任
-140114ロマーン・ミハイロヴィチオーリゴヴィチ(チェルニーゴフ系)再任

リペツク公 князь Липецкий

 リペツク Липецк は、現在のリペツクの近郊にあったと推測される都市(ロシア連邦リペツク州)。現存しない(もっとも現在のリペツクこそが年代記のリペツクだとする説もある)。
 正確な位置は不明ながら、セーヴェルスカヤ・ゼムリャーの最東端に位置していたことは間違いない。ちなみに、西隣のエレーツはリャザニ公領となっている。リペツク公領も、のちにはリャザニ公に属したとされる。
 とはいえ、下記以外のリペツク公の存在は確認されていない。

-128512スヴャトスラーフ・アンドレーエヴィチオーリゴヴィチ(セーヴェルスキイ系)(トルブチェフスク公アンドレイ・スヴャトスラーヴィチの子)
1285-12アレクサンドル・アンドレーエヴィチオーリゴヴィチ(セーヴェルスキイ系)

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最終更新日 24 11 2011

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