ロストーフ公領
本来ロストーフ公領と言った場合、北東ルーシを指した。しかしユーリイ・ドルゴルーキイがスーズダリに遷都してより、ロストーフ公領という言葉は使われなくなる。次にこの言葉が使われるのは、コンスタンティーン賢公が領有した北東ルーシの一分領としてである。
ここでは、前者の意味では北東ルーシを使い、ロストーフ公領という言葉は後者の意味で使っておく。
コンスタンティーン賢公の分領は、北東ルーシの北方一帯を広く含んでいた(大雑把に、北東ルーシ全体の3分の1近く?)。単純に言って、こんにちのヤロスラーヴリ州と、それにヴォーログダ州の一部である。その北と西にはノーヴゴロド領が広がっていた。東にはコストロマー公領(ヴラディーミル大公領)とガーリチ=メールスキイ公領があったが、そのさらに北東のヴェリーキー・ウーステュグはロストーフ公領であった。おそらくヴォーログダからヴェリーキー・ウーステュグへと流れるスホナ川流域をロストーフ公が領有したのだろう。
しかし一族の分裂に伴い、ロストーフ公領も細分化されていく。わかりやすく図式化すると次のようになろうか。
- ロストーフ
- ロストーフ
- ロストーフ
- ロストーフ=ウスレティンスキイ、ロストーフ=ボリソグレーブスキイ
- ベロオーゼロ
- ベロオーゼロ、スゴルスク、シェレシュパンスク、ケーマ、ウーフトマ、カールゴロム、ヴァードボラ
- ロストーフ
- ウーグリチ
- ヤロスラーヴリ
- ヤロスラーヴリ
- ヤロスラーヴリ、クールバ、ノヴレンスコエ、ユーホティ、ザオゼーリエ、クーベナ、ロマーノフ
- モローガ
- モローガ、シーティ、プローゾロヴォ
- ヤロスラーヴリ
- ロストーフ
分領が分領を生んでいくという図式がここまできれいに描けるのも珍しい。しかもそれが、ロストーフ公領成立の次世代からであるだけに、ロストーフ公領は早くに統一性を失った。のみならず、領土が広大であったとはいえ、経済的にはむしろ遅れた地域であったようだ。おそらくそれもあって、ロストーフ系諸公(ヤロスラーヴリ系諸公を含む)は、早くに没落していく。
すでに14世紀前半にはモスクワ公に従属しており、15世紀半ばには相次いでモスクワ大公領に併合された。
ロストーフ公 князь Ростовский
ロストーフ Ростов はモスクワ北東部の都市(ロシア連邦ヤロスラーヴリ州)。
元来メーリャ人を始めとするフィン・ウゴル語族の居住地で、年代記862年に初出の時も、メーリャ人の首都としてであった。それがやがて、スラヴ人に吸収され、ムーロムとともに、フィン系に対するルーシの最前線となる。
のちにヤロスラーヴリがさらに北東に建設されるが、北東ルーシの中心都市はロストーフであり続けた。早くも991年には主教座が設置されている。この時同時に主教座の置かれたチェルニーゴフ、ヴラディーミル=ヴォルィンスキイとともに、ロストーフは、キエフ、ノーヴゴロドに次ぐ重要性を持つ都市と考えられていたと言ってもいいだろう。
それかあらぬか、ヴラディーミル偉大公が最初にキエフ・ルーシを分割した時点でロストーフにも公が立てられた。もっとも駒不足もあって、いったん公は姿を消す。
おそらく11世紀半ばからモノマーシチの «ヴォーッチナ(父祖伝来の地)» となり、内訌や外部からの侵略に悩む北部・南部からの移住者で発展していった。しかし都市ロストーフ自体は徐々に新興のスーズダリにその地位を脅かされる。
おそらく12世紀初頭に公になったユーリイ・ドルゴルーキイは、ロストーフではなくスーズダリを自領の主都とし、以後かれの領土はロストーフ=スーズダリ公領と呼ばれるようになった。その子アンドレイ・ボゴリューブスキイにより、ロストーフ=スーズダリ公領はルーシ中の有力公領に発展。もっとも、アンドレイは主都をヴラディーミルへ移転させ、公領はヴラディーミル大公領として発展していく。
ロストーフはこの時点ですでに150年以上の歴史を誇る古都であった。ヴラディーミル偉大公以来の古い貴族たちも根付いており、それがアンドレイ・ボゴリューブスキイがロストーフを嫌った理由であったが、逆にロストーフの貴族たちはヴラディーミルを新興の «成り上がり者» として蔑視する。アンドレイ・ボゴリューブスキイ死後にヴラディーミル系内で起こった一族の内紛には、ヴラディーミルに対抗意識を燃やすロストーフ貴族が大きく関与していた。この内紛に敗北したことで、ロストーフの政治的没落は決定的となった。
1207年以降、ヴラディーミル大公領の分領として復活。ベロオーゼロ、ヤロスラーヴリ、ウーグリチ、ウーステュグを領有し、広くヴラディーミル大公領の北部一帯を支配した。
公とされたコンスタンティーン賢公がフセーヴォロド大巣公の長男であったこと、父の死後、内紛を経てヴラディーミル大公位を獲得したことで、ロストーフ公領とこれを支配する一族はヴラディーミル大公領において優位な立場に立ったと言える。しかし諸々の事情によりコンスタンティーン賢公の子らは誰ひとりヴラディーミル大公位を占めることができず、結果的にヴラディーミル大公領においては従属的な立場に甘んじることとなった。
加えて、コンスタンティーン賢公死後に公領は分割され、しかも世代を経るごとにますます細分化されていって、領土的、血族的統一を維持することができなかった。
ロストーフは1238年にモンゴル軍に蹂躙され、その後も何度もハーンに反抗したり、その結果としてタタール軍に攻略されたりしたものの、同時に歴代のロストーフ公は、あるいはモスクワ公以上にキプチャク・ハーンと密接な関係を結んでいた。ロストーフには多数のタタール人が住んでおり、ベルケの甥がキリスト教に改宗して修道院を創建したのもロストーフにおいてである。1322年にタタール軍がロストーフを焼き打ちしようとした際には、ロストーフに居住するタタール人の要望で都市が救われたこともあった。
14世紀、ついに都市ロストーフそのものが二分される。弱体化したロストーフ系諸公は相次いでモスクワ公に屈服。1360年前後にいったんは独立を回復しようとした者もいたが、それに失敗。自らの分領の権利をモスクワ公に譲渡し、分領公としてではなくモスクワ公の代官として «ヴォーッチナ(父祖伝来の地)» を支配する公まで出てきた。
都市ロストーフの分割がどのような実態であったのかはよくわからないが、すでに1433年にはモスクワ大公の代官がこれを支配している。その後もロストーフ公自体は存在し続けており、おそらく多少の権利は有していたのだろうと想像される(たとえば交易から得られた税収の一部をもらえる、とか)。しかし1474年、イヴァン3世大帝によりモスクワ大公領に併合された。
なお、13世紀以前のロストーフ公、ロストーフ=スーズダリ公については、ヴラディーミル大公も参照のこと。
ロストーフ公 князь Ростовский | ||||
987-1010 | 5 | ヤロスラーフ賢公 | リューリコヴィチ | (ヴラディーミル偉大公の子) |
1010-15 | 5 | 聖ボリース | リューリコヴィチ | 弟 |
1066-73 | 7 | ヴラディーミル・モノマーフ | モノマーシチ | (ヤロスラーフ賢公の孫) |
1095 | 8 | ムスティスラーフ偉大公 | モノマーシチ | 子 |
ロストーフ=スーズダリ公 князь Ростово-Суздальский | ||||
1095-1149 | 8 | ユーリイ・ドルゴルーキイ | モノマーシチ(ヴラディーミル系) | 弟 |
ロストーフ公 князь Ростовский | ||||
1175-76 | 10 | ムスティスラーフ無眼公 | モノマーシチ(ヴラディーミル系) | 甥(ロスティスラーフ・ユーリエヴィチの子) |
1207-18 | 10 | コンスタンティーン賢公 | モノマーシチ(ヴラディーミル系/ロストーフ系) | 従兄弟(フセーヴォロト大巣公の子) |
1218-38 | 11 | ヴァシリコ・コンスタンティーノヴィチ | モノマーシチ(ヴラディーミル系/ロストーフ系) | 子 |
1238-77 | 12 | ボリース・ヴァシリコヴィチ | モノマーシチ(ヴラディーミル系/ロストーフ系) | 子 |
1277-78 | 12 | グレーブ・ヴァシリコヴィチ | モノマーシチ(ヴラディーミル系/ロストーフ系) | 弟 |
1278-86 | 13 | ドミートリイ・ボリーソヴィチ | モノマーシチ(ヴラディーミル系/ロストーフ系) | 甥(ボリースの子) |
1286-88 | 13 | コンスタンティーン・ボリーソヴィチ | モノマーシチ(ヴラディーミル系/ロストーフ系) | 弟 |
1289-94 | 13 | ドミートリイ・ボリーソヴィチ | モノマーシチ(ヴラディーミル系/ロストーフ系) | 兄/再任 |
1294-1307 | 13 | コンスタンティーン・ボリーソヴィチ | モノマーシチ(ヴラディーミル系/ロストーフ系) | 弟/再任 |
1307-16 | 14 | ヴァシーリイ・コンスタンティーノヴィチ | モノマーシチ(ヴラディーミル系/ロストーフ系) | 子 |
1316-20 | 15 | ユーリイ・アレクサンドロヴィチ | モノマーシチ(ヴラディーミル系/ロストーフ系) | 甥(アレクサンドル・コンスタンティーノヴィチの子) |
ロストーフ=ウスレティンスキイ公 князь Ростов-Усретинский | ||||
1320-31 | 15 | フョードル・ヴァシーリエヴィチ | モノマーシチ(ヴラディーミル系/ロストーフ系) | (ヴァシーリイ・コンスタンティーノヴィチの子) |
1331-1409 | 16 | アンドレイ・フョードロヴィチ | モノマーシチ(ヴラディーミル系/ロストーフ系) | 子 |
1409- | 17 | イヴァン・アンドレーエヴィチ | モノマーシチ(ヴラディーミル系/ロストーフ系) | 子 |
ロストーフ=ボリソグレープスキイ公 князь Ростов-Борисоглебский | ||||
1320-65 | 15 | コンスタンティーン・ヴァシーリエヴィチ | モノマーシチ(ヴラディーミル系/ロストーフ系) | (ヴァシーリイ・コンスタンティーノヴィチの子) |
1365-75 | 16 | ヴァシーリイ・コンスタンティーノヴィチ | モノマーシチ(ヴラディーミル系/ロストーフ系) | 子 |
1375-1404 | 16 | アレクサンドル・コンスタンティーノヴィチ | モノマーシチ(ヴラディーミル系/ロストーフ系) | 弟 |
1404-15 | 17 | アンドレイ・アレクサンドロヴィチ | モノマーシチ(ヴラディーミル系/ロストーフ系) | 子 |
1415-17 | 17 | フョードル・アレクサンドロヴィチ | モノマーシチ(ヴラディーミル系/ロストーフ系) | 弟 |
1417- | 17 | イヴァン・アレクサンドロヴィチ | モノマーシチ(ヴラディーミル系/ロストーフ系) | 弟 |
-1474 | 18 | ヴラディーミル・アンドレーエヴィチ | モノマーシチ(ヴラディーミル系/ロストーフ系) | 甥(アンドレイの子) |
-1474 | 18 | イヴァン長公 | モノマーシチ(ヴラディーミル系/ロストーフ系) | 従兄弟(イヴァンの子) |
ウーグリチ公 князь Углицкий
ウーグリチ Углич はヤロスラーヴリ西方のヴォルガ河畔の都市(ロシア連邦ヤロスラーヴリ州)。
地元では10世紀に建設されたとされているようだが、年代記への初登場は1148年。コンスタンティーン賢公に与えられ、その子の代に分領となった。ロマーン・ヴラディーミロヴィチの死でロストーフ公領に吸収されたが、すぐに再び分領となる。1320年、ユーリイ・アレクサンドロヴィチの死でモスクワに併合される。その後モスクワ公領の分領として復活。
なお、フョードル1世の弟ドミートリイ・ツァレーヴィチにもウーグリチが与えられたが、ドミートリイ・ツァレーヴィチは特段ウーグリチ公などとは名乗らなかった。
1238-49 | 11 | ヴラディーミル・コンスタンティーノヴィチ | モノマーシチ(ヴラディーミル系/ロストーフ系) | (ロストーフ公コンスタンティーン賢公の子) |
1249-61 | 12 | アンドレイ・ヴラディーミロヴィチ | モノマーシチ(ヴラディーミル系/ロストーフ系) | 子 |
1261-85 | 12 | ロマーン・ヴラディーミロヴィチ | モノマーシチ(ヴラディーミル系/ロストーフ系) | 弟 |
1286-88 | 12 | ドミートリイ・ボリーソヴィチ | モノマーシチ(ヴラディーミル系/ロストーフ系) | 従兄弟 |
1288-94 | 12 | コンスタンティーン・ボリーソヴィチ | モノマーシチ(ヴラディーミル系/ロストーフ系) | 弟 |
1294-1302 | 13 | アレクサンドル・コンスタンティーノヴィチ | モノマーシチ(ヴラディーミル系/ロストーフ系) | 子 |
1302-20 | 14 | ユーリイ・アレクサンドロヴィチ | モノマーシチ(ヴラディーミル系/ロストーフ系) | 子 |
1389-1405 | 16 | ピョートル・ドミートリエヴィチ | モノマーシチ(ヴラディーミル系/モスクワ系) | (ドミートリイ・ドンスコーイの子) |
1405-10 | 15 | セールプホフ公ヴラディーミル勇敢公 | モノマーシチ(ヴラディーミル系/モスクワ系) | (セールプホフ公アンドレイ・イヴァーノヴィチの子) |
1410-27 | 16 | ヴァシーリイ・ヴラディーミロヴィチ? | モノマーシチ(ヴラディーミル系/モスクワ系) | 子 |
-1433 | 16 | コンスタンティーン・ドミートリエヴィチ | モノマーシチ(ヴラディーミル系/モスクワ系) | (ピョートルの弟) |
1434-41 | 17 | ドミートリイ赤公 | モノマーシチ(ヴラディーミル系/モスクワ系) | 甥(モスクワ大公ユーリイ・ドミートリエヴィチの子) |
1434-48 | 17 | ドミートリイ・シェミャーカ | モノマーシチ(ヴラディーミル系/モスクワ系) | 弟 |
1462-92 | 18 | アンドレイ・ゴリャーイ | モノマーシチ(ヴラディーミル系/モスクワ系) | 甥(モスクワ大公ヴァシーリイ2世盲目公の子) |
1506-21 | 19 | ドミートリイ・ジールカ | モノマーシチ(ヴラディーミル系/モスクワ系) | 甥(モスクワ大公イヴァン3世大帝の子) |
1534-64 | 20 | ユーリイ・ヴァシーリエヴィチ | モノマーシチ(ヴラディーミル系/モスクワ系) | 甥(モスクワ大公ヴァシーリイ3世の子) |
ウーステュグ公 князь Устюжский
ウーステュグ Устюг (現名ヴェリーキー・ウーステュグ Великий Устюг)は、ヴォーログダのはるか東方にある都市(ロシア連邦ヴォーログダ州)。
北東ルーシの北東のはずれに位置し、北極圏を東に勢力を拡大するノーヴゴロト共和国との勢力圏争いの最前線にあった。コンスタンティーン賢公の領土となる。14世紀後半から分領になったとされるが、よくわからない。
ヤロスラーヴリ公 князь Ярославский
ヤロスラーヴリ Ярославль はモスクワ北東、ヴォルガ河畔の都市(ロシア連邦ヤロスラーヴリ州州都)。
年代記における初出は1071年。しかし一般的に、ヤロスラーフ賢公がロストーフ公であった時代(988-1010)に建てられたとされている(かれにちなんでヤロスラーヴリと名付けられたというわけだ)。以来北東ルーシにおいてロストーフに次ぐ重要都市であった。もっとも、スーズダリ、ヴラディーミルと新たに台頭した都市に圧され、その発展は遅れた。
13世紀初頭、ロストーフ公領に組み込まれ、ヤロスラーヴリの発展が始まる。コンスタンティーン賢公はロストーフではなくヤロスラーヴリに居住したとする説もあるようだ。その死で分領となる。
1238年、モンゴルの襲来で破壊される。その後再建されたが、1255/57年、公家が断絶した。通常であれば分領はそのままロストーフ公領に再統合されるはずだが、いかなる理由からか分領の独立は維持された。1261年、スモレンスク系からフョードル黒公が婿として迎えられ、ヤロスラーヴリ公が復活した。女系による公位継承はキエフ・ルーシにあっては非常にまれな例となる。
1321年、モローガ公領が成立。その後1世代ごとに新たに複数の分領がつくられ、ヤロスラーヴリ公領は細分化されていった。もともとがヤロスラーヴリ公領は、こんにちのヤロスラーヴリからルィビンスク人造湖、その北東部、さらにはベーロエ・オーゼロ(白湖)東部をも領有していたようで、面積的にはそこそこあった(リャザニ公領ぐらいはあった?)。しかし人口が希薄で、都市はほとんど存在しなかった(都市らしい都市はヤロスラーヴリだけ)。それが細分化されたのだから、ひとつひとつの分領は村落をいくつか抱える程度で、非常に貧しかった。おそらくこのためだろう、分領公たちは通常ヤロスラーヴリ公を名乗り続け、実際にヤロスラーヴリを領有するヤロスラーヴリ公は自らを «大公» と自称したらしい。
北東ルーシ諸公の例に漏れず、ヤロスラーヴリ諸公も14世紀後半にはモスクワ大公に従属するようになる。その後、言わばモスクワの属領として100年を過ごした。最終的には1463年、モスクワ大公イヴァン3世大帝に公としての権利を売却させられ、公領はモスクワに併合された。
1218-38 | 11 | フセーヴォロド・コンスタンティーノヴィチ | モノマーシチ(ヴラディーミル系/ロストーフ系) | (ロストーフ公コンスタンティーン賢公の子) |
1238-49 | 12 | ヴァシーリイ・フセヴォローディチ | モノマーシチ(ヴラディーミル系/ロストーフ系) | 子 |
1249-55 | 12 | コンスタンティーン・フセヴォローディチ | モノマーシチ(ヴラディーミル系/ロストーフ系) | 弟 |
1261-99 | 13 | フョードル黒公 | モノマーシチ(スモレンスク系/ヤロスラーヴリ系) | (ヴァシーリイの娘婿) |
1299-1321 | 14 | ダヴィド・フョードロヴィチ | モノマーシチ(スモレンスク系/ヤロスラーヴリ系) | 子 |
1321-45 | 15 | ヴァシーリイ雷眼公 | モノマーシチ(スモレンスク系/ヤロスラーヴリ系) | 子 |
1345- | 16 | ヴァシーリイ・ヴァシーリエヴィチ | モノマーシチ(スモレンスク系/ヤロスラーヴリ系) | 子 |
-1426 | 17 | イヴァン年長公 | モノマーシチ(スモレンスク系/ヤロスラーヴリ系) | 子 |
1426-34 | 17 | フョードル・ヴァシーリエヴィチ | モノマーシチ(スモレンスク系/ヤロスラーヴリ系) | 弟 |
1434-63 | 18 | アレクサンドル太鼓腹公 | モノマーシチ(スモレンスク系/ヤロスラーヴリ系) | 子 |
クールバ公 князь Курбский
クールバ Курба はヤロスラーヴリ近郊の小村(ロシア連邦ヤロスラーヴリ州)。
ヤロスラーヴリ公領の末期(15世紀前半)に分割された分領のひとつ。ヤーコフ・イヴァーノヴィチが子なくして死んだため、弟セミョーン・イヴァーノヴィチが継いだ。しかしすでにその子らは事実上独立を喪失していた。以後、モスクワ大公の勤務公。
-1455 | 18 | ヤーコフ・イヴァーノヴィチ | モノマーシチ(スモレンスク系/ヤロスラーヴリ系) | (ヤロスラーヴリ公イヴァン年長公の子) |
1455- | 18 | セミョーン・イヴァーノヴィチ | モノマーシチ(スモレンスク系/ヤロスラーヴリ系) | 弟 |
ノヴレンスコエ公 князь Новленский
ノヴレンスコエ Новленское はルィビンスク人造湖東部の小村(ロシア連邦ヤロスラーヴリ州)。
ヤロスラーヴリ公領の分領。しかし1463年にヤロスラーヴリ諸公領がモスクワ大公領に併合された際に、ノヴレンスコエ公領も消滅したものと思われる。その子孫はユーホティ流域(ヴォルガ支流でルィビンスク人造湖南方)を領有してユホーツキイ公を名乗った。
-1440 | 17 | セミョーン・ヴァシーリエヴィチ | モノマーシチ(スモレンスク系/ヤロスラーヴリ系) | (ヤロスラーヴリ公ヴァシーリイ・ヴァシーリエヴィチの子) |
1440- | 18 | ダニイール・セミョーノヴィチ | モノマーシチ(スモレンスク系/ヤロスラーヴリ系) | 子 |
ザオゼーリエ公 князь Заозерский
所在地は不明。ヤロスラーヴリ公領の分領。そもそも «ザオゼーリエ» とは地名ではなく、「湖の向こう側の土地」を意味する普通名詞。おそらくベーロエ・オーゼロ(白湖)の東岸部を指すものと考えられている(ロシア連邦ヴォーログダ州)。
17 | ドミートリイ・ヴァシーリエヴィチ | モノマーシチ(スモレンスク系/ヤロスラーヴリ系) | (ヤロスラーヴリ公ヴァシーリイ・ヴァシーリエヴィチの子) | |
-1447 | 18 | フョードル・ドミートリエヴィチ | モノマーシチ(スモレンスク系/ヤロスラーヴリ系) | 子 |
ロマーノフ公 князь Романовский
ロマーノフ Романов (現名トゥターエフ Тутаев)はヤロスラーヴリ北東のヴォルガ河畔の都市(ロシア連邦ヤロスラーヴリ州)。
ロマーン・ヴァシーリエヴィチは父の死後分領を受け取ると、1370年に小さな都市を建設し、これを自分にちなんでロマーノフと名付けてここに移り住んだ(ウーグリチ公ロマーン・ヴラディーミロヴィチにより100年前に建てられたとも言われる)。しかし分領の歴史は100年程で、15世紀にはモスクワ大公領に併合された。1468年にはすでにモスクワ大公妃マリーヤ・ヤロスラーヴナ(イヴァン3世の母后)の個人的な所領となっている。
1370- | 16 | ロマーン・ヴァシーリエヴィチ | モノマーシチ(スモレンスク系/ヤロスラーヴリ系) | (ヤロスラーヴリ公ドミートリイ雷眼公の子) |
17 | イヴァン・ロマーノヴィチ | モノマーシチ(スモレンスク系/ヤロスラーヴリ系) | 子 |
クーベナ公 князь Кубенский
クーベナ Кубена はベーロエ・オーゼロ(白湖)南東の湖、あるいはそこに流れ込む川(ロシア連邦ヴォーログダ州)。ヴォーログダのすぐ北に位置する。
ロマーノフ公ロマーン・ヴァシーリエヴィチの子たちはロマーノフ公領を分割したものと思われるが、それぞれどこを領有したかはよくわからない。うち、ドミートリイの子イヴァン・デイがクーベナ湖の南東部を領有してクーベナ公となる。もっとも、かれが領有したのはここだけではないと思われる。息子たちは父の領土を継いで、のちデーエフ公家となっていく。
しかしクーベナ湖南東部はイヴァン・デイの娘が継ぎ、ザオゼーリエ公ドミートリイ・ヴァシーリエヴィチの子セミョーンが領有することになった。珍しい、女系を通じた相続である。とはいえセミョーン・ドミートリエヴィチは、妹がドミートリイ・シェミャーカの妻となっていた関係で、モスクワ大公ヴァシーリイ2世に領土を没収される。子孫はクベンスキイ公を名乗り続けるが、もはや分領公ではない。
18 | イヴァン・デイ | モノマーシチ(スモレンスク系/ヤロスラーヴリ系) | (ロマーノフ公ロマーン・ヴァシーリエヴィチの孫) | |
-1447 | 18 | セミョーン・ドミートリエヴィチ | モノマーシチ(スモレンスク系/ヤロスラーヴリ系) | 娘婿 |
モローガ公 князь Моложский
モローガ Молога は現在、ルィビンスク・ダムの建設で人造湖の底に沈んでいる(ロシア連邦ヤロスラーヴリ州)。
モローガ河が年代記に初登場するのは1149年。ユーリイ・ドルゴルーキイと対立するイジャスラーフ・ムスティスラーヴィチが、モローガ河畔の諸都市を焼き打ちしたとの記述である。名は挙げられていないものの、モローガ河畔の諸都市の中にモローガそのものも含まれていたことはまず間違いあるまい。その後、この地域は1207年にロストーフ公領となり、1218年にヤロスラーヴリ公領となった。
1321年、ヤロスラーヴリ公領は二分割され、モローガ公領が成立した。しかし本領ヤロスラーヴリと同じく、さらなる分領への細分化、モスクワ大公への従属が進行。1463年、モスクワ大公イヴァン3世大帝によりモスクワ大公領に併合された。
1321-62 | 15 | ミハイール・ダヴィドヴィチ | モノマーシチ(スモレンスク系/ヤロスラーヴリ系) | (ヤロスラーヴリ公ダヴィト・フョードロヴィチの子) |
1362-1408 | 16 | フョードル・ミハイロヴィチ | モノマーシチ(スモレンスク系/ヤロスラーヴリ系) | 子 |
1408?- | 17 | ドミートリイ・ペリーナ | モノマーシチ(スモレンスク系/ヤロスラーヴリ系) | 子 |
18 | ピョートル・ドミートリエヴィチ | モノマーシチ(スモレンスク系/ヤロスラーヴリ系) | 子 |
シーティ公 князь Ситский
シーティ Сить は、トヴェーリ州に発しヤロスラーヴリ州を通ってルィビンスク人造湖に注ぐ川(ロシア連邦トヴェーリ州・ヤロスラーヴリ州)。1238年のシーティ河畔の戦いで有名。
モローガ公領。1408年にその分領となる。川の名が分領の名となったということは、これといった村落すら領有していなかったということか。すでにヤロスラーヴリ系諸公はモスクワ大公に従属しており、シーティ公領もおそらく1463年までにはモスクワ大公領に併合されたと思われる。その子孫はロシア貴族のシーツキイ公家。
1408- | 17 | セミョーン・フョードロヴィチ | モノマーシチ(スモレンスク系/ヤロスラーヴリ系) | (モローガ公フョードル・ミハイロヴィチの子) |
プローゾロヴォ公 князь Прозоровский
プローゾロヴォ Прозорово はプロゾローヴォとも。モローガ近郊の小村(ロシア連邦ヤロスラーヴリ州)。
モローガ公領。1408年にその分領となったとされる。しかしイヴァン・フョードロヴィチは1508年まで生きており、どう考えてもフョードル・ミハイロヴィチの子とは考えられない。この辺り、記録上の混乱があるようだ(あるいはイヴァン・フョードロヴィチと息子のアンドレイ・イヴァーノヴィチとを取り違えているのかもしれない)。
いずれにせよヤロスラーヴリ系諸公はすでにモスクワ大公に従属しており、プローゾロヴォ公もまた事実上モスクワ大公の勤務公と化していた。しかしプローゾロヴォ公は、少なくともアンドレイ・イヴァーノヴィチの代までは分領公と見なされていたらしい。正式にプローゾロヴォ公領がモスクワ大公領に併合されたのがいつかはよくわからない。子孫はロシア貴族のプロゾローフスキイ公家。
1408- | 17 | イヴァン・フョードロヴィチ | モノマーシチ(スモレンスク系/ヤロスラーヴリ系) | (モローガ公フョードル・ミハイロヴィチの子) |
ベロオーゼロ公 князь Белозерский
ベロオーゼロ Белоозеро はベーロエ・オーゼロ(白湖)の北岸にあった、ルーシ最古の都市のひとつ(ロシア連邦ヴォーログダ州)。現存せず。
緯度から言えば、長い間キエフ・ルーシ最北の都市であった。年代記への初出も早く、『原初年代記』によればリューリクがルーシにやって来た862年、リューリクの弟シネウスがベロオーゼロ公になったとされる。その後はロストーフ公領、ロストーフ=スーズダリ公領、ヴラディーミル大公領となったようで、長い間独自の公は立てられなかった。
1207年、ロストーフ公領。1238年に分領となる。1330年頃、モスクワ公イヴァン・カリターが買収したものの、タタールの介入でロマーン・ミハイロヴィチに返還されたという。その死後、公領は二分割される。
1352年、黒死病の流行で、ベロオーゼロの都市自体が別の場所に遷された。ただしこれに関しては文献によって言っていることが少々違う。ベロオーゼロがそもそも白湖北岸にあり、その後南岸に遷された点では一致しているものの、南岸に遷されたのがいつか、早くも10世紀とするものとこの1352年とするものとがある。10世紀とする文献の中には、1352年にさらに西方に移動させたとするものもある。いずれにせよ、15世紀までにはベロオーゼロは現在の位置に遷っていた(現名ベロゼールスク Белозерск)。
1389年、モスクワ大公ドミートリイ・ドンスコーイはその死に際して、ベロオーゼロ公領を息子に与えている。1380年のクリコーヴォの戦いからこの時までの間に、ベロオーゼロ公領はモスクワ大公領に併合されたことになる。一旦は復活したベロオーゼロ公領は、1486年にミハイール・アンドレーエヴィチの死で最終的にモスクワ大公領に併合された。
862-864 | 1 | シネウス | リューリコヴィチ | (リューリクの弟) |
1238-78 | 12 | グレーブ・ヴァシリコヴィチ | モノマーシチ(ヴラディーミル系/ロストーフ系) | (ロストーフ公ヴァシリコ・コンスタンティーノヴィチの子) |
1278-93 | 13 | ミハイール・グレーボヴィチ | モノマーシチ(ヴラディーミル系/ロストーフ系) | 子 |
1293-1314 | 14 | フョードル・ミハイロヴィチ | モノマーシチ(ヴラディーミル系/ロストーフ系) | 子 |
1314-39 | 14 | ロマーン・ミハイロヴィチ | モノマーシチ(ヴラディーミル系/ロストーフ系) | 弟 |
1339-80 | 15 | フョードル・ロマーノヴィチ | モノマーシチ(ヴラディーミル系/ロストーフ系) | 子 |
1380-89 | 16 | ユーリイ・ヴァシーリエヴィチ | モノマーシチ(ヴラディーミル系/ロストーフ系) | 甥 |
1389-1432 | 16 | モジャイスク公アンドレイ・ドミートリエヴィチ | モノマーシチ(ヴラディーミル系/モスクワ系) | (ドミートリイ・ドンスコーイの子) |
1432-86 | 17 | ミハイール・アンドレーエヴィチ | モノマーシチ(ヴラディーミル系/モスクワ系) | 子 |
1480頃 | ? | ユーリイ・ヴァシーリエヴィチ | ? | ? |
スゴルスク公 князь Сугорский
ここではスゴルスクとしておいたが、これがそもそもどんな固有名詞を指しているのかわからない。
ロマーン・ミハイロヴィチの死でベロオーゼロ公領が二分され、ヴァシーリイ・ロマーノヴィチがその半分を相続した。しかしこの分領も、その子の代には早くもスゴルスク・ケーマ、シェレシュパンスク(?)、カールゴロム・ウーフトマに三分割される。ケーマ Кема とウーフトマ Ухтома はルィビンスク人造湖北西の川で、カールゴロム Карголом は白湖東方の村落。さらにヴァードボラ Вадбола、アンドーガ Андога などの分領が分かれ、スゴルスク公領は細かく分裂していった。
しかし、すでにヴァシーリイ・ロマーノヴィチの子、あるいは孫の代にはいずれもモスクワ大公の勤務公となっており、事実上分領は消滅していた。その子孫はいずれも弱小のロシア貴族として存続した。
-1380 | 15 | ヴァシーリイ・ロマーノヴィチ | モノマーシチ(ヴラディーミル系/ロストーフ系) | (ベロオーゼロ公ロマーン・ミハイロヴィチの子) |
16 | セミョーン・ヴァシーリエヴィチ | モノマーシチ(ヴラディーミル系/ロストーフ系) | 子 |