ルーシ諸公

ムーロム=リャザニ公領

ムーロム公領とリャザニ公領をあわせた地域。のちの時代にはムーロム公領とリャザニ公領は完全に独立してしまったので、別々に論じた方がいいのかもしれないが、元来がリャザニ公領はムーロム公領の分領であり、支配していた公家も同じスヴャトスラーヴィチ一族のムーロム系なので、慣例に従いここでも両者をあわせて論じる。
 なお、ムーロムとリャザニを並べるのはリャザニが台頭してきてから。それまでは単純にムーロム(公領)と呼んでいた。

 ムーロム=リャザニ公領は、北はロストーフ公領、西はセーヴェルスカヤ・ゼムリャー(チェルニーゴフ公領)と接するが、東にはウラル系の諸民族(主にモルドヴァー人)、南にはステップの遊牧民族の住む土地が広がる。
 その領域は、おおよそこんにちのロシア連邦リャザニ州に相当する。北東でムーロムへ、北西でコロームナへと、それぞれオカー河沿いにリャザニ州の領域から飛び出して領土が延びている。東部方面ではあまり領土を拡大できなかったようだが、南方ではドン河流域を下り、現リペツク州にまで勢力を拡大した時期もあったようだ。

 ムーロム(=リャザニ)公領はキエフ・ルーシの最東端に位置し、領土の特に東部には元来ウラル系の諸民族が住んでいた。ムーロムという都市の名自体、先住のウラル系民族ムロマー人にちなんだ名である。
 そのため、東方への最前線として重要な役割を担っていた。同時に重要な交易拠点でもあった。
 もっとも、そのわりには初期にはあまり重要な人物が公に任じられていない。むしろ最前線としての役割は北方のロストーフ公領こそが担っていたと考えられる。事実、ムーロム公領も当初はロストーフ公領(北東ルーシ)に属していたとも言われる(少なくとも聖グレーブがムーロム公だった時代には、実際にはロストーフ公の聖ボリースがムーロム公領も統治したらしい)。
 1024年、ムスティスラーフ勇敢公が兄のヤロスラーフ賢公とキエフ・ルーシ(おそらく正確には南ルーシ)を東西に分割した際には、ムーロム公領はチェルニーゴフ公領(セーヴェルスカヤ・ゼムリャー)とともにムスティスラーフ勇敢公の領土となった。1154年にチェルニーゴフ公となったスヴャトスラーフ・ヤロスラーヴィチも、ムーロム公領を領有したらしい。のち、リューベチ会議でムーロムはスヴャトスラーヴィチの «ヴォーッチナ(父祖伝来の地)» として認められることになる。
 11世紀末にモノマーシチとスヴャトスラーヴィチの争いの中で、ようやく独立の公領として成立し、上述のように1097年、スヴャトスラーヴィチのヴォーッチナとして認められた。スヴャトスラーヴィチはヴォーッチナを分割し、ヤロスラーフ・スヴャトスラーヴィチがムーロム公領を領有。ヤロスラーフ・スヴャトスラーヴィチは兄たちの死後セーヴェルスカヤ・ゼムリャーも併せ、スヴャトスラーヴィチのヴォーッチナ全体を領有したが、1127年に甥にセーヴェルスカヤ・ゼムリャーを奪われ、こうして最終的にムーロムは独立の公領として確立した。以後、ヤロスラーフ・スヴャトスラーヴィチの子孫が代々ヴォーッチナとして世襲することになる。

 しかし早くもヤロスラーフ・スヴャトスラーヴィチの子の代にはムーロム公領とリャザニ公領とに分裂(一部にはさらにプロンスク公領も成立したとする説もある)。以後、12世紀前半には全体の宗主権をムーロム公が握っていたようだが(リャザニ公からムーロム公への横滑りも見られる)、徐々にリャザニ公領(あるいは都市リャザニ)が重要性を高めていく。1155年にムーロム公となったはずのヴラディーミル・スヴャトスラーヴィチについて、ニーコン年代記は「リャザニ大公」と呼んでいるし、イパーティー年代記は1161年に «リャザニ大公» として死んだと記している。ムーロム=リャザニ公領の中心都市がムーロムからリャザニに移っていたということかもしれない。1198年に主教座が設置されたのも、ムーロムではなくリャザニであった(ちなみにムーロムには現在も主教座が置かれていない)。
 南方ステップにはリャザニ公領が当たり、東方ウラル系諸民族との最前線には北方のヴラディーミル公領(北東ルーシ)が位置しており、それぞれの台頭に伴いムーロム公領の戦略的・経済的重要性は低下していく。あるいは歴代の諸公の個性も問題だったのかもしれないが、モルドヴァー人居住地への進出も進まず(これを積極的に担うのは13世紀以降のヴラディーミル公)、13世紀にはムーロム公領はすっかり影を薄くしている。モンゴル襲来に際しても、リャザニ(都市)は英雄的な防衛戦で有名だが、ムーロム(都市)はモンゴル軍の襲来を受けたのかどうかすらもよくわからない。
 他方でリャザニ公領は、都市リャザニ自体が12世紀に急速に発展。歴代諸公も北のヴラディーミル諸公や西のチェルニーゴフ諸公との関係で活発に活動し、南方へも現リペツク州にまで進出している。
 12世紀後半以降は、もはやムーロム公領とリャザニ公領とは互いに独立した公領になったと言っていいだろう。それぞれに独自の «王家» を戴き、もはやリャザニ公がムーロム公に横滑りするということもなくなった。12世紀後半以降は、それぞれ歩んだ道のりもまったく異なり、ムーロム=リャザニ公領をまとめて論じる意味はあまりないように思われる。

 12世紀後半以降のムーロム=リャザニ公領をまとめて論じる意味は、その対外関係にあると言える。すなわち、ムーロム公領もリャザニ公領も、北のヴラディーミル公領の強い影響を受け、その従属的な立場に立たされるようになったのである。
 リャザニ諸公は早くも1147年にはユーリイ・ドルゴルーキイに追われ、1177年にはフセーヴォロド大巣公の捕虜となり、1180年、86年と内紛が勃発した際にもフセーヴォロド大巣公の介入を受け、ついには1207年、リャザニはフセーヴォロド大巣公に占領された。
 一方ムーロム諸公は1160年代以降、歴代ヴラディーミル公の遠征に従軍している。
 ムーロム公領は1393年、モスクワ公領に併合された。リャザニ公領はこれに対抗したこともあり、大規模な公領としては最も長く独立を維持した。キエフ、ペレヤスラーヴリ、トゥーロフ、ポーロツク、グロドノ、ガーリチ=ヴォルィニ、スモレンスク、セーヴェルスカヤ・ゼムリャーは、スモレンスクの1405年を最後にリトアニアに併合された(セーヴェルスカヤ・ゼムリャーから分かれた上流諸公領の中にはその後も生き残ったものもあったが)。他方、ノーヴゴロドは1478年、プスコーフは1510年、北東ルーシでもロストーフ系が1490年までに、スーズダリがムーロムと同じ1393年に、トヴェーリも1485年に、いずれもモスクワに併合されている。リャザニ公領の最後はよくわからない部分もあるが、少なくとも1521年までにはモスクワ大公領に併合された。

ムーロム公 князь Муромский

 ムーロム Муром は年代記の862年の項に初めて登場する、オカー河畔の都市(ロシア連邦ヴラディーミル州)。

 ムーロム公領はムーロム=リャザニ公領の北東部。キエフ・ルーシの最東端であり、ウラル系民族やヴォルガ・ブルガールとの最前線として重要な役割を担った。
 しかし実際には、歴代ムーロム公が東方進出に積極的な役割を果たしたとは思えない。1221年にニージュニイ・ノーヴゴロドがムーロムのさらに北東に建設され、このためムーロムの戦略的重要性が失われたとする文献もあるが、話が逆ではないだろうか。
 実際、聖グレーブ以後ムーロムには独自の公が置かれず、よその公の従属下にあった。このためルーシの地としてのムーロム公領の発展も遅れたのだろう。この地をキリスト教化した伝説的な公コンスタンティーンが、ムーロム系リューリコヴィチの祖となったヤロスラーフ・スヴャトスラーヴィチと同一視されることもある。つまりは、11世紀末までムーロム公領ではキリスト教化が進んでいなかったということになる。

 ヤロスラーフ・スヴャトスラーヴィチの子の代には、分領のリャザニ公からムーロム公への «昇格» の例が見られるが、孫のヴラディーミル・スヴャトスラーヴィチは、少なくとの年代記の記述上はムーロム公ではなく «リャザニ大公» であった。
 以後、ヴラディーミル・スヴャトスラーヴィチの子孫がムーロム公位を世襲するが、もはや年代記にポツリポツリと名前が散見されるだけである。それもヴラディーミル大公との関連で言及されるだけで、13世紀に入るとそれすらなくなり、「ムーロム諸公」とだけで個人名は挙げられなくなる。上述のように、モンゴルの襲来でムーロム(都市)が被害をこうむったかどうかすらはっきりしない。モンゴル軍にすら見向きもされなかったのか、それとも被害をこうむったことが年代記に載せるまでもない重要性のない都市となっていたのか。
 歴代ムーロム公は、早くからヴラディーミル大公に事実上従属している。これもまたムーロム公領没落のひとつの原因でありまた結果であろう。13世紀以降、ムーロム軍は事実上ヴラディーミル大公の軍を構成する一要素にすぎない。

 13世紀末から半世紀にわたり、年代記にムーロムの名は現れない。150年にわたって公の存在が知られず、例外となるユーリイ・ヤロスラーヴィチとフョードル・グレーボヴィチも、公位を巡る争いが記録されているだけである。時々「ムーロムの諸公」という言葉は登場しているので、複数の公がいたことは確かで、他の公領と同様に無数の分領に細分化されていたのかもしれない。いずれにせよムーロム公領がどのような状態にあったのか、まったく不明である。おそらくそのためもあったのだろう。1393年、モスクワ大公ヴァシーリイ1世がムーロムの併合を認めるようキプチャク・ハーンに要請すると、あっさり許可された。ムーロム公領はモスクワ大公領に併合された。
 なお、確認できる限りでは、ムーロム公領に分領は存在しない(リャザニ公領自体がもともとムーロム公領の分領ではあるが)。

 ヴァシーリイ1世は、ムーロムと並んでメシチェラーの併合もキプチャク・ハーンに要請している。メシチェラーとはウラル系民族のメシチェラー人、およびその土地のことで、おおざっぱに言ってムーロム(都市)とリャザニ(都市)との間に広がる。ムーロム=リャザニ公領が元来ウラル系民族の土地であったことを示す事実で、ムーロム=リャザニ公領が成立して400年が過ぎて、いまだに領内のウラル系民族を同化できていなかったことになる。
 ムーロム公領とリャザニ公領の境界線がどの辺りにあったかはよくわからないが、種々の状況からして、おそらくメシチェラー人の地は(少なくとも中心部は)ムーロム公領に属したのだろうと想像される。つまり、1393年の時点でムーロム公領からメシチェラー人の地が事実上独立していた、ということだろう。

-10155聖グレーブリューリコヴィチ(ヴラディーミル偉大公の子)
1095-968イジャスラーフ・ヴラディーミロヴィチモノマーシチ(ヴラディーミル・モノマーフの子)
1096-11297ヤロスラーフ・スヴャトスラーヴィチスヴャトスラーヴィチ(ムーロム系)(スヴャトスラーフ・ヤロスラーヴィチの子)
1129-438ユーリイ・ヤロスラーヴィチスヴャトスラーヴィチ(ムーロム系)
1143-458スヴャトスラーフ・ヤロスラーヴィチスヴャトスラーヴィチ(ムーロム系)
1145-558ロスティスラーフ・ヤロスラーヴィチスヴャトスラーヴィチ(リャザニ系)
1155-629ヴラディーミル・スヴャトスラーヴィチスヴャトスラーヴィチ(ムーロム系)甥(スヴャトスラーフの子)
-117610ユーリイ・ヴラディーミロヴィチスヴャトスラーヴィチ(ムーロム系)
1176-120511ヴラディーミル・ユーリエヴィチスヴャトスラーヴィチ(ムーロム系)
1205-2811ダヴィド・ユーリエヴィチスヴャトスラーヴィチ(ムーロム系)
1228-3712ユーリイ・ダヴィドヴィチスヴャトスラーヴィチ(ムーロム系)
1237-4813ヤロスラーフ・ユーリエヴィチスヴャトスラーヴィチ(ムーロム系)
-1345?ヴァシーリイ
1345-54?ユーリイ・ヤロスラーヴィチ
1354-?フョードル・グレーボヴィチ

リャザニ公 князь Рязанский

 リャザニ Рязань という名は、現代ロシアと古代ルーシとでは違う都市を指している。古代ルーシにおけるリャザニは現スターラヤ・リャザニのこと(ロシア連邦リャザニ州)。現在のリャザニは、古代においてはペレヤスラーヴリ=リャザンスキイ Переяславль Рязанский という名で知られていた(ロシア連邦リャザニ州州都)。どちらもモスクワ南東部にある、オカー河畔の都市だが、スターラヤ・リャザニ(旧リャザニ)はペレヤスラーヴリ=リャザンスキイ(現リャザニ)のさらに南東にある。
 スターラヤ・リャザニについては下でも述べるが、年代記での初出は1095年。ペレヤスラーヴリ=リャザンスキイもヤロスラーフ・スヴャトスラーヴィチによって同年に建設されたらしい(もっとも年代記での初出は1300年)。
 ここではリャザニとはスターラヤ・リャザニ(旧リャザニ)を指し、現リャザニを指す場合はペレヤスラーヴリ=リャザンスキイと呼ぶことにする。ただし、スターラヤ・リャザニからペレヤスラーヴリ=リャザンスキイへと遷都した権力を、一貫してリャザニ公と呼ぶ。

 リャザニ公領はムーロム=リャザニ公領の南西部。
 1129年、ヤロスラーフ・スヴャトスラーヴィチの死で、ムーロム公領の分領として成立。しかしヤロスラーフ・スヴャトスラーヴィチの子らは、年長者がムーロム公、年少者がリャザニ公となり、兄が死ぬと弟がムーロム公位を継いでいる。言わばムーロム=リャザニ公領において、ナンバーワンの地位がムーロム公位、ナンバーツーの地位がリャザニ公位であった。
 ところが1155年、一族のナンバーワンとなったヴラディーミル・スヴャトスラーヴィチは「リャザニ大公」として年代記に記されている。おそらくリャザニがその重要性においてムーロムを凌駕するにいたったのだろう。なお、リャザニ公が正確にいつ頃から大公を自称するようになったかは不明だが、キエフ大公の没落とともに大公の称号が «全ルーシの宗主» という意味合いを失う12世紀末から13世紀にかけての時期(おそらくはモンゴル襲来後)ではないか。少なくとも1155年、ヴラディーミル公アンドレイ・ボゴリューブスキイすらおそらくまだ大公を自称していなかった時からとは思えない。
 と言うのも、リャザニ公領はムーロム公領と同様、かなり早くから北東ルーシ(ロストーフ=スーズダリ公、ヴラディーミル=スーズダリ公、ヴラディーミル大公)に従属していたからである。1146年と54年にユーリイ・ドルゴルーキイにリャザニを追われ、1177年にはフセーヴォロド大巣公の捕虜となり、1180年と86年にはその介入を受け、1207年にはリャザニ公領そのものが併合されてしまった。
 このようにリャザニ公領が劣勢に陥ったのは、ひとつにはしばしば内訌が起こっているからであろう。1180年、86年、1207年はいずれもその結果である。1217年には一族皆殺し事件も起こっている。もっとも内訌はほかのヴラディーミル大公領を含めてほかの公領でも起こっていることで、むしろ真の原因はほかにあるのかもしれない。
 その一方で、13世紀初頭、特にイングヴァーリ・イーゴレヴィチの下で南方ステップ地方に大きく領土を拡大している。

 1237年、モンゴル軍に対する英雄的な防衛戦は有名だが、これによりリャザニ公領は徹底的に破壊される。その後の半世紀は国土再建の時期であり、年代記もその情勢をほとんど伝えてくれていない。1301年にはモスクワ公の侵攻を受け、時のリャザニ大公は捕虜となり、コロームナも奪われた。
 リャザニ大公領は、14世紀半ば、オレーグ・イヴァーノヴィチの時代に再び発展する。この頃(?)主都もペレヤスラーヴリ=リャザンスキイに移され、中継貿易で経済も栄え、モスクワ、リトアニア、キプチャク・ハーン国の3大国のバランスをうまく取りながら自立的な外交を展開し、ある意味でリャザニ大公領の最盛期が現出されたと言ってもいいだろう。
 しかしすでにその子の代には、リャザニ大公領はモスクワ大公の属国化する。以後のリャザニ大公領の歴史は、モスクワへの隷属度を強めていく歴史だと言っても過言ではあるまい。
 1521年、イヴァン・イヴァーノヴィチが追放され(リトアニアに亡命)、リャザニ大公領はモスクワ大公領に併合された。

1129-438スヴャトスラーフ・ヤロスラーヴィチスヴャトスラーヴィチ(ムーロム系)(ムーロム公ヤロスラーフ・スヴャトスラーヴィチの子)
1143-458ロスティスラーフ・ヤロスラーヴィチスヴャトスラーヴィチ(リャザニ系)
1145-789グレーブ・ロスティスラーヴィチスヴャトスラーヴィチ(リャザニ系)
1178-120710ロマーン・グレーボヴィチスヴャトスラーヴィチ(リャザニ系)
1207-1310ヤロスラーフ・フセヴォローディチモノマーシチ(ヴラディーミル系)(ヴラディーミル大公フセーヴォロド大巣公の子)
1213-1711ロマーン・イーゴレヴィチスヴャトスラーヴィチ(リャザニ系)(ロマーン・グレーボヴィチの甥)
1217-3511イングヴァーリ・イーゴレヴィチスヴャトスラーヴィチ(リャザニ系)
1235-3711ユーリイ・イーゴレヴィチスヴャトスラーヴィチ(リャザニ系)
1238-5212イングヴァーリ・イングヴァーレヴィチスヴャトスラーヴィチ(リャザニ系)甥(イングヴァーリ・イーゴレヴィチの子)
1252-5812オレーグ赤公スヴャトスラーヴィチ(リャザニ系)
1258-7013ロマーン・オーリゴヴィチスヴャトスラーヴィチ(リャザニ系)
1270-9414フョードル・ロマーノヴィチスヴャトスラーヴィチ(リャザニ系)
1294-9914ヤロスラーフ・ロマーノヴィチスヴャトスラーヴィチ(リャザニ系)
1299-130114コンスタンティーン・ロマーノヴィチスヴャトスラーヴィチ(リャザニ系)
1301-0815ヴァシーリイ・コンスタンティーノヴィチスヴャトスラーヴィチ(リャザニ系)
1308-2715イヴァン・ヤロスラーヴィチスヴャトスラーヴィチ(リャザニ系)従兄弟(ヤロスラーフ・ロマーノヴィチの子)
1327-4216イヴァン・コロトポルスヴャトスラーヴィチ(リャザニ系)
1342-4417ヤロスラーフ・アレクサンドロヴィチスヴャトスラーヴィチ(プロンスク系)(プロンスク公アレクサンドル・ミハイロヴィチの子)
1344-5017ヴァシーリイ・アレクサンドロヴィチスヴャトスラーヴィチ(プロンスク系)
1350-7117オレーグ・イヴァーノヴィチスヴャトスラーヴィチ(リャザニ系)(イヴァン・コロトポルの子)
1371-7218ヴラディーミル・ヤロスラーヴィチスヴャトスラーヴィチ(プロンスク系)(ヤロスラーフ・アレクサンドロヴィチの子)
1372-140217オレーグ・イヴァーノヴィチスヴャトスラーヴィチ(リャザニ系)再任
1402-2718フョードル・オーリゴヴィチスヴャトスラーヴィチ(リャザニ系)
1427-5619イヴァン・フョードロヴィチスヴャトスラーヴィチ(リャザニ系)
1456-8320ヴァシーリイ三分の一公スヴャトスラーヴィチ(リャザニ系)
1483-150021イヴァン・ヴァシーリエヴィチスヴャトスラーヴィチ(リャザニ系)
1500-1622イヴァン・イヴァーノヴィチスヴャトスラーヴィチ(リャザニ系)

プロンスク公 князь Пронский

 プロンスク Пронск はリャザニ南方の都市(ロシア連邦リャザニ州)。
 1129年にヤロスラーフ・スヴャトスラーヴィチが死んだ時点ですでに分領として成立したのではないかともされるが、年代記上の初出は1131年。史料上分領が確認されるのは1186年のことである。状況証拠から、1180年にリャザニ公領の分領として成立したものと考えられる。
 リャザニ系リューリコヴィチは多数の一族を抱えていたにもかかわらず、プロンスク以外の分領を持たない(少なくとも知られていない)。しかも分家が続かず、このためリャザニ公とプロンスク公とは兄弟かせいぜい従兄弟の関係にあった。これも大きな要因だろうが、プロンスク公はリャザニ公としばしば対立し、これがリャザニ系一族内の内紛となり、ヴラディーミル大公の介入を招いた。
 どうやらミハイール・ヤロスラーヴィチ以後、その子孫がプロンスク独自の系統として成立したようだが、依然としてリャザニ公位を巡りリャザニ系との対立が続いた。
 プロンスク公領の最後はよくわからない。1465年にリャザニ大公領に併合されたとも、1483年のことだとも、リャザニ大公領ではなくモスクワ大公領に併合されたのだとも言われる。

-118610フセーヴォロド・グレーボヴィチスヴャトスラーヴィチ(リャザニ系)(リャザニ公グレープ・ロスティスラーヴィチの子)
1186-8810スヴャトスラーフ・グレーボヴィチスヴャトスラーヴィチ(リャザニ系)
1188-10フセーヴォロド・グレーボヴィチスヴャトスラーヴィチ(リャザニ系)再任
-120711ミハイール・フセヴォローディチスヴャトスラーヴィチ(リャザニ系)
120711イジャスラーフ・ヴラディーミロヴィチスヴャトスラーヴィチ(リャザニ系)従兄弟(ヴラディーミル・グレーボヴィチの子)
1207-0811オレーグ・ヴラディーミロヴィチスヴャトスラーヴィチ(リャザニ系)
120811ダヴィド・ユーリエヴィチスヴャトスラーヴィチ(ムーロム系)(ムーロム公ユーリイ・ヴラディーミロヴィチの子)
1208-1711ミハイール・フセヴォローディチスヴャトスラーヴィチ(リャザニ系)再任
1270-9414リャザニ公ヤロスラーフ・ロマーノヴィチスヴャトスラーヴィチ(リャザニ系)(リャザニ公ロマーン・オーリゴヴィチの子)
1294-130815イヴァン・ヤロスラーヴィチスヴャトスラーヴィチ(リャザニ系)
1308-15ミハイール・ヤロスラーヴィチスヴャトスラーヴィチ(プロンスク系)
-134016アレクサンドル・ミハイロヴィチスヴャトスラーヴィチ(プロンスク系)
1340-4217ヤロスラーフ・アレクサンドロヴィチスヴャトスラーヴィチ(プロンスク系)
1343-7118ヴラディーミル・ヤロスラーヴィチスヴャトスラーヴィチ(プロンスク系)
1372-143019イヴァン・ヴラディーミロヴィチスヴャトスラーヴィチ(プロンスク系)
1430-20フョードル・イヴァーノヴィチスヴャトスラーヴィチ(プロンスク系)
-148321ユーリイ・フョードロヴィチスヴャトスラーヴィチ(プロンスク系)

コロームナ князь Коломенский

 コロームナ Коломна はモスクワの南東、オカー河とモスクワ河とが合流する地点に位置する都市(ロシア連邦モスクワ州)。ロシア語の形容詞だと、現在モスクワ市の一部となっているコローメンスコエ Коломенское (世界遺産の昇天教会がある)と区別がつかない。
 1177年に年代記に初登場。リャザニ公領の北西の前線拠点であった。1301年、モスクワ公領に併合される。
 年代記初登場直後の12世紀末から分領であったとする史料があるが、さて?

エレーツ公 князь Елецкий

 エレーツ Елец は南ロシアの都市(ロシア連邦リペツク州)。
 ニーコン年代記では1147年が初出だが、これには疑義が呈されている。地理的にはこの地域は元来チェルニーゴフ公領だったが、モンゴルの襲来でチェルニーゴフが壊滅的打撃を受けると、14世紀にはリャザニ公領となる。
 信じるに足る年代記の記述では、1389年が初出。この時点で、すでに公がいた(公の名は記されていない)。しかし1395年、ティムールに攻略され(この時捕虜になった公の名も不明)、さらに1414年にはタタール軍の襲来を受け、エレーツは荒廃した。しかし文献によっては、この時の公はフョードルとイヴァンの父子であったとされる。フョードル・イヴァーノヴィチはリャザニ大公オレーグ・イヴァーノヴィチの孫であり、その縁からエレーツを分領として与えられたのだろうと想像される。
 タタールの攻略後エレーツは荒廃し、おそらく分領そのものも消滅したものと思われる。現在の都市は、1591年にフョードル1世によって建設された砦が基礎となっている。

1140s9アンドレイ・ロスティスラーヴィチスヴャトスラーヴィチ(リャザニ系)(リャザニ公ロスティスラーフ・ヤロスラーヴィチの子)
-139515フョードル・イヴァーノヴィチオーリゴヴィチ(カラーチェフ系)(カラーチェフ公イヴァン・ティートヴィチの子)
-141416イヴァン・フョードロヴィチオーリゴヴィチ(カラーチェフ系)

スターラヤ・リャザニ公 князь Старорязанский

 スターラヤ・リャザニ Старая Рязань とは «古いリャザニ»、つまり旧リャザニのこと(ロシア連邦リャザニ州)。現リャザニの南東に位置するオカー河畔の都市。
 12世紀初頭以来リャザニ公領の主都だったが、1237年にモンゴルに破壊され、主都は近郊のペレヤスラーヴリ=リャザンスキイ(現リャザニ)に移された。

1483-150321フョードル三分の一公スヴャトスラーヴィチ(リャザニ系)(リャザニ大公ヴァシーリイ・イヴァーノヴィチの子)

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最終更新日 24 11 2011

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