ルーシ諸公

リューリクがノーヴゴロド公国を建てて以降、後を継いだオレーグがキエフ公となり、リューリクの子イーゴリ、その子スヴャトスラーフと続いて、その間にこの地にいたほかの公たちを打ち倒し、ロシア、ウクライナ、ベラルーシ、すなわちキエフ・ルーシの支配権はキエフ公に握られたかに見えた。
 しかしスヴャトスラーフの子の世代以降、代々キエフ・ルーシの地はリューリク一族間で分割されるようになる。当初はキエフ公が他の公に対する優位を維持し、よってキエフ大公と呼ばれてその下でキエフ・ルーシの統一が保たれていたが、やがてキエフ大公の権力は徐々に衰え、権威は失われ、諸公が «独立» への道を歩みはじめる。
 しかも、キエフ・ルーシの地はリューリク一族によって際限なく細分化されていく。
 結局、13世紀のモンゴルの襲来と14世紀のリトアニアの膨張により、キエフ・ルーシは統一の政治勢力としては姿を消した。ウクライナとベラルーシの地はリトアニアの領土となり、残った地域もほとんどがキプチャク・ハーンの属国となった。唯一独立を維持したノーヴゴロトは、すでにキエフの権威から完全に自立していた。
 しかしここから、モスクワの台頭が始まる。キプチャク・ハーンの属国として着々と力を蓄えたモスクワ公は、やがて周辺諸公を切り従え、キプチャク・ハーンからの独立を勝ち取り、ツァーリを名乗って、かつてのキエフ・ルーシの後継者を自認してリトアニア=ポーランドと激しく争うようになる。

 ここではキエフ・ルーシの諸公(正確には、キエフ・ルーシの版図に16世紀頃まで存在した諸公)を、筆者のわかる限りすべてリストアップしている。
 ただし、スモレンスク公領、ロストーフ公領、上流諸公領などに見られる、れっきとした分領なのか、それともただ単に家名の由来になった所領にすぎないのか、区別のつけ難いものについては基本的に無視することとした。
 そもそも情報の欠如、混乱が甚だしく、種々の説が混在する場合も多々あるが、当ページの性格上、独断に基づいてひとつの説を採用している。異説の詳細については、個々の人物の評伝で説明している場合もあるので参照されたい。

 なお、«北ルーシ» とか «西ルーシ» とかいった分類は、筆者の恣意。
 また係累について «ガーリチ系» とか «スヴャトスラーヴィチ» といった、ほかで見られない言葉を使用しているが、これは便宜上のものでしかない。詳細についてはリューリク家についてのページを参照のこと。

  1. 南ルーシ
  2. 南西ルーシ
  3. 西ルーシ
  4. 中央ルーシ
  5. 東ルーシ
  6. 北ルーシ
  7. 北東ルーシ

五十音順リスト

諸公領地図

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最終更新日 01 12 2012

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