«ロシアの君主»が、日本の天皇のように直線的に継承されたものであれば楽だったのだが、現実にはそうではない。
前のページの表を見ると、ロシアに関しては、
ノーヴゴロト公 ☞ キエフ大公 ☞ ヴラディーミル大公 ☞ モスクワ大公 ☞ ツァーリ ☞ 皇帝
という具合に直線的に継承されているように見えるし、事実これまでのロシア史学ではそういう理解が一般的であったが(そういう時代の典型的な «ロシアの歴代君主» 表が下)、事はそう単純ではない。しかし詳細を論じるのは別の場所に譲るとして、とにかくツァーリが登場する以前にロシア・ウクライナ・ベラルーシの地で公・大公を名乗っていた者を挙げてみた(ルーシ諸公)。このリストも完全ではないが、それについてはまたそちらのページで。
ツァーリから皇帝への継承は直線的である(ツァーリ・ロシア皇帝)。このリストは非常に単純でいい。
さて、かつてのロシア帝国には、こんにちのロシアだけでなくウクライナやベラルーシ、さらにリトアニアやポーランドも含まれていた。少なくともロシア帝国の時代には、«どこからどこまでがロシアか»は明確になっておらず、ゆえにウクライナもベラルーシも、ロシア人には«ロシアの辺境地域»といった程度にしか認識されていなかった。そしてこれら地域では、ポーランドやリトアニアが非常に重要な役割を演じている。そこでここでは、ロシア史を理解する上で不可欠の要素として、リトアニアとポーランド、ついでにクールラントの支配者のリストも掲げることにした(リトアニア諸公、ポーランド王、クールラント公)。
最後に、ウクライナ・コサックのアタマンを«君主» として認める者はごく少数派だろうし、少なくとも当時は誰も«君主»として認めていなかったと思うが、コサックが自分たちの自治の象徴としてアタマンを擁していた側面は疑い得ず、これまたついでなのでリストを挙げることにした(ウクライナ・コサックのヘトマン)。
«ロシアの歴代君主» を直線的に理解したら
かなり無理があることを承知の上で、リューリクをロシアの最初の君主とし、ニコライ2世を最後の君主として、あえて両者を直線的に結んでみた。ちなみに、無理があるのはキエフ大公からヴラディーミル大公への移行の部分である。ヴラディーミル大公からモスクワ大公へ、というのは時期が問題だが(1363年で区切っていいのか)、人には問題はない。
右列の「世代」という欄は、見慣れないリストだと思うが、これはリューリクからフョードル1世まで、ミハイールからニコライ2世までを、家系図上で直線的に結んだものである(かっこは実際には君主になっていない者)。もしこのように、純粋に単純に親から子へと君主の地位が継承されていたら、58人もいたリューリク家の君主も21人で済むし、18人いたロマーノフ家の君主も10人で済んでいたことになる。いかにロシアにおける君主の地位の継承が錯綜したものであったかを示す、ひとつの目安になるだろう。