ガーリチ公領
とりあえずガーリチ公領と呼ぶしかないが、要するにペレムィシュリ、テレボーヴリ、ズヴェニーゴロド、ガーリチの4つの公領が統一されて12世紀半ばに誕生した公領。それ以前のガーリチ公領(狭い意味でのガーリチ公領)とは区別しなければならない。
あるいはガリツィアとでも呼んだ方がいいのかもしれないが、のちの時代のガリツィア(しかも西欧での呼び名)とは領域が異なる。
ヴォルィニ公領とともにキエフ・ルーシの最西端に位置する。北(と言うより北東)のヴォルィニ公領が、ガーリチ公領が接する唯一のルーシの公領である。北西はポーランドと接しており、西のスロヴァキア、南西のハンガリー、南のトランシルヴァニア(現ルーマニア領)はいずれも当時ハンガリー王国領であった(カルパティア山脈がハンガリーとの国境を成していた)。
その領域は、北西ではヴィスワ河の上流域にまで達しており、現在の地図にあてはめるとポーランド領の南東部、古都クラクフのすぐ近くまで領有していた。そこから南東へドニェストル上流域、すなわち現ウクライナのリヴォーフ州、イヴァノ=フランコフスク州、テルノーポリ州をもほぼ含んでいた。
問題は南東部であり、ドニェストル河を下って、おそらくチェルノフツィ州やフメリニツキイ州の南部は含んだであろうが、さらに現モルドヴァ共和国、あるいはルーマニア北部にまで勢力を有していたのかどうか。歴史地図の中には黒海沿岸部(現在のオデッサ周辺)までも領域に含めているものもあるが。
この地域はキエフ・ルーシ最西端に位置し、北西のポーランドとの間で帰属があいまいであった。オレーグの時代にはこの地に住んでいた白クロアティア人やドゥレーブィ族がコンスタンティノープル遠征に従軍していたが、その後は建国されたばかりのポーランドの勢力圏に入った。981年、ヴラディーミル偉大公がヴォルィニ共々この地域を征服。
ヴォルィニにはすでにヴラディーミル偉大公の時代に公が立てられていたが、そのさらに南西のガーリチの地は僻遠であったためか、公の擁立は遅れる。11世紀末まで、おそらくはヴラディーミル=ヴォルィンスキイ公の支配圏に入っていたのだろう。
1085年、(おそらく)イジャスラーヴィチの領土から切り離され、ペレムィシュリ、テレボーヴリ、ズヴェニーゴロドの3つの分領が成立する。さらにガーリチが出来て4つになったものが、1141年にヴラディミルコ・ヴォロダーレヴィチによって統一され、初めて単一の公領となった(正確には全領土が統一されるのは1145年)。主都はガーリチに置かれ、そのためこの地域全体がガーリチ公領と呼ばれるようになった。
ガーリチ公国はポーランド、ハンガリーと国境を接し、ドナウ川河口地域を巡ってビザンティン帝国との関係も生じるという位置にあり、これら諸国の介入を受けたり、ポーロヴェツ人の襲撃に対処しなければならなかった。
しかし重要な河川及び陸路交通の要衝でもあったため、貿易を有利に展開することが可能であった。さらに塩山を抱え商業的にも発展し、キエフ・ルーシでも最も豊かな地域のひとつであった。そのため土着勢力が力を持って貴族層を形成し、リューリク家の公が持ち込んだ従士団が根付かなかった。それどころか貴族層はしばしば公とも対立し、これを廃立する力を有した。特に13世紀前半にガーリチ公領が政治的に安定しなかったのはこれが大きな要因のひとつと言える。
他方、キエフから比較的遠隔の地にあったこともあり、キエフ大公位争奪戦をはじめとするルーシ諸公の内紛に巻き込まれることが少なく、(少なくとも12世紀のうちは)公の権力が安定的であったことも国家としての発展に寄与した。1156年にはガーリチに主教座も設置されている。
特に12世紀後半、ヤロスラーフ・オスモムィスルの下でガーリチは統一国家としての体裁を整え、領土も大きく拡大(特に一時期はドニェストル河口部まで支配したようだ)。ガーリチはキエフ・ルーシでも最有力の公領のひとつとなった。
しかしかれの死後、公位を巡る争いからハンガリーやポーランドの介入を受け、一時はハンガリーの支配下に入り、12世紀末には公家の断絶によりロマーン偉大公に征服され、北隣のヴォルィニ公領に併合された。
ロマーン偉大公はキエフをも事実上支配し、キエフ・ルーシ南部に君臨した。当時すでにキエフ大公の権威はなきに等しく、キエフ・ルーシの統一者としての役割は北部ではヴラディーミル大公フセーヴォロド大巣公が、南部ではロマーン偉大公が継いだと言っていい。
ガーリチはその下で、さらなる発展を迎える。政治的にはヴォルィニ公領に併合された形であったが(歴代公はガーリチではなくヴラディーミル=ヴォルィンスキイを首都とした)、ガーリチの国内貴族は依然力を有していたし(それがガーリチが歴代公に嫌われた理由)、経済的にはガーリチが統一公領の中心地であった。
しかしこうして成立したガーリチ=ヴォルィニ統一公領だったが、1205年のロマーン偉大公の死で呆気なく崩壊。ロマーン偉大公の死後、ガーリチは40年に及ぶ動乱の時代を迎える。
国内貴族の専横(1213年には貴族のヴラディスラーフ・コルミリーチチが事実上ガーリチ公となった)、公位を巡るリューリク一族の内紛(ヴォルィニ系モノマーシチとセーヴェルスキイ系オーリゴヴィチの対立、これにスモレンスク系モノマーシチとチェルニーゴフ系オーリゴヴィチが絡む)、ハンガリーとポーランドの介入(ハンガリー王アンドラーシュ2世は «ガリツィア王» を自称)などにより、一時はペレムィシュリやテレボーヴリに再び公が立てられてガーリチが分割されるなど、ガーリチ情勢は混乱を極めた。
さらに1241年のモンゴルの襲来はガーリチ公領を破壊し、ガーリチ公領はモンゴルの属国となることを余儀なくされた。
1245年に最終的に統一と平和を回復したダニイール・ガリーツキイは、1253年にはキプチャク・ハーンに抵抗するためローマ教皇をキリスト教会の長として認め、ガリツィア・ロドメリア王 rex Galiciae et Lodomeriae の王冠をもらっている(ロドメリア Lodomeria とはヴラディーミル Vladimir のこと)。しかし教皇は何の力にもならず、ガーリチ=ヴォルィニ公領は依然キプチャク・ハーンへの貢納を義務づけられた(ダニイールもサライに赴きハーンに臣従を誓っている)。
ダニイール・ガリーツキイの治世はガーリチ=ヴォルィニ公領の政治的・経済的最盛期ともされる。しかし地中海経済の発展とともにガーリチの繁栄にも翳りが見えてきており、衰退の始まりの時期でもあったとも言えるだろう。
なお、ダニイール・ガリーツキイはヴォルィニ公領を弟ヴァシリコ・ロマーノヴィチに委ねており、形の上ではガーリチ公領とヴォルィニ公領は分離していたことになる。さらにダニイール・ガリーツキイの死後、レフとシェヴァルンの兄弟が(おそらく)ガーリチを南北に分割。最終的にはレフ・ダニイーロヴィチの晩年、再びガーリチ=ヴォルィニ公領は全土がレフ・ダニイーロヴィチひとりの支配下に収まることになる。
なお領土的には、ダニイール・ガリーツキイが(おそらく)グロドノ公領を併合し、レフ・ダニイーロヴィチがルブリンやザカルパーティエ(現ウクライナ共和国ザカルパーティエ州)を占領し、またダニイール・ガリーツキイがリトアニア諸公に宗主権を及ぼしたり(一時的に)、シェヴァルン・ダニイーロヴィチがリトアニア大公になったり、13世紀後半にはガーリチ=ヴォルィニ公領は大きく拡大した。
14世紀のガーリチ=ヴォルィニ公領については、情報が著しく乏しくなる。依然として宗主権を及ぼすモンゴル、急速に膨張するリトアニアとの戦いに追われる状況だったらしい。
この間、ハンガリーは地中海に目を向けていたが、ポーランドは統一を回復して勢力を拡大。ガーリチ=ヴォルィニの公家(ロマーノヴィチ)が断絶したことで、ポーランド王家の一族(遠い分家だが)がガーリチ=ヴォルィニ公位を獲得。どうやらこれに伴いガーリチ貴族が再び権力を握ったらしい。事実上、1324年のユーリエヴィチ兄弟の死でガーリチ=ヴォルィニ公領は瓦解していたと言っていいだろう。
その後はポーランドとリトアニアの間でガーリチ=ヴォルィニを巡る争いが続き、最終的には1349年、ポーランド王カジミェシュ3世大王により、ガーリチはポーランドに併合された。なお、1392年、旧ヴォルィニ公領のうちベリズとホルムがリトアニア領からポーランド領に割譲されている。
ペレムィシュリ公 князь Перемышльский
ペレムィシュリ Перемышль (ポーランド語名プシェムィシュル Przemyśl)はウクライナとの国境にほど近いポーランド南東部の都市(ポーランド共和国)。
981年の項に登場する古都。1085年にイジャスラーヴィチの領土から切り離され、ロスティスラーヴィチ兄弟の長兄リューリクに与えられた。大雑把にガーリチ公領の西部。以後、ロスティスラーヴィチ一族(ガーリチ系)の領土(ガーリチ公領)の中心都市であった。1141年、ヴラディミルコ・ヴォロダーレヴィチが新たに獲得したガーリチに移り、主都としての役割を終えた。
その後ガーリチ公領はガーリチ公によって統一的に支配されるが、折に触れてペレムィシュリにも公が立てられている。それはいずれもガーリチ公領が混乱した時期である。もっとも、ダニイール・ガリーツキイとヤロスラーフ・イングヴァーレヴィチの支配したペレムィシュリはここではなく、ヴォルィニ公領にもそういう名の都市があってそちらだとする文献もある。
1340年以降、ポーランド領。
1085-92 | 8 | リューリク・ロスティスラーヴィチ | ガーリチ系 | (ロスティスラーフ・ヴラディーミロヴィチの子) |
1092-1124 | 8 | ヴォロダーリ・ロスティスラーヴィチ | ガーリチ系 | 弟 |
1124-29 | 9 | ロスティスラーフ・ヴォロダーレヴィチ | ガーリチ系 | 子 |
1129-41 | 9 | ヴラディミルコ・ヴォロダーレヴィチ | ガーリチ系 | 弟 |
1187-88 | 11 | ヴラディーミル・ヤロスラーヴィチ | ガーリチ系 | 孫 |
1210-11 | 10 | スヴャトスラーフ・イーゴレヴィチ | スヴャトスラーヴィチ(セーヴェルスキイ系) | («イーゴリ公» の子) |
1211 | 12 | ダニイール・ガリーツキイ | モノマーシチ(ヴォルィニ系) | (ロマーン偉大公の子) |
1227- | 11 | ヤロスラーフ・イングヴァーレヴィチ | モノマーシチ(ヴォルィニ系) | (イングヴァーリ・ヤロスラーヴィチの子) |
ズヴェニーゴロド公 князь Звенигородский
ズヴェニーゴロド Звенигород はリヴォーフの南東にある小村(ウクライナ共和国リヴォーフ州)。
1085年にイジャスラーヴィチの領土から切り離され、ロスティスラーヴィチ兄弟の次兄ヴォロダーリに与えられた。大雑把にガーリチ公領の中央部。
なお、ガーリチ公領にはもうひとつズヴェニーゴロドがあったらしく、イヴァン・ベルラードニクはそちらの分領公だったとも言われ、どうもはっきりしない。
1085-92 | 8 | ヴォロダーリ・ロスティスラーヴィチ | ガーリチ系 | (ロスティスラーフ・ヴラディーミロヴィチの子) |
1124-29 | 9 | ヴラディミルコ・ヴォロダーレヴィチ | ガーリチ系 | 子 |
1129-45 | 10 | イヴァン・ベルラードニク | ガーリチ系 | 甥 |
1206-07 | 10 | ロマーン・イーゴレヴィチ | スヴャトスラーヴィチ(セーヴェルスキイ系) | («イーゴリ公» の子) |
1208-11 | 10 | ロマーン・イーゴレヴィチ | スヴャトスラーヴィチ(セーヴェルスキイ系) | 再任 |
テレボーヴリ公 князь Теребовльский
テレボーヴリ Теребовль はテルノーポリ南方の都市テレボーヴリャ Теребовля の近郊にあった都市(ウクライナ共和国テルノーポリ州)。現存しない。
1085年にイジャスラーヴィチの領土から切り離され、ロスティスラーヴィチ兄弟の末弟ヴァシリコに与えられた(もっともテレボーヴリ自身が年代記に登場するのは1097年が最初)。大雑把にガーリチ公領の東部。南ウクライナやモルダヴィアの異民族との最前線にあたり、ドニェストル河に沿ってかれらの地域に領土を拡大していったものと考えられる。
1124年、テレボーヴリ公領は南北(東西?)に分割される。南部(西部?)がガーリチ公領(狭義の)である。
1141年、ヴラディミルコ・ヴォロダーレヴィチの領土となり、統一ガーリチの一部となった。
1085-1124 | 8 | ヴァシリコ・ロスティスラーヴィチ | ガーリチ系 | (ロスティスラーフ・ヴラディーミロヴィチの子) |
1124- | 9 | グリゴーリイ・ヴァシリコヴィチ | ガーリチ系 | 子 |
-1141 | 9 | ガーリチ公イヴァン・ヴァシリコヴィチ | ガーリチ系 | 兄 |
1210 | 11 | イジャスラーフ・ヴラディーミロヴィチ | スヴャトスラーヴィチ(セーヴェルスキイ系) | («イーゴリ公» の孫) |
ガーリチ公 князь Галицкий
ガーリチ Галич は、イヴァノ=フランコフスクのすぐ北にある、ドニェストル河畔の都市(ウクライナ共和国イヴァノ=フランコフスク州)。
狭義のガーリチ公領は、1124年にテレボーヴリ公領から分離。おそらくその南部(西部?)であったろう。ただし、ガーリチという都市の名が初めて年代記に登場するのは1140年のことである。しかし翌1141年にガーリチ公領、ペレムィシュリ公領、テレボーヴリ公領が統一された際に主都とされたのはガーリチであった。
以後、ガーリチ公領全体の主都として発展。
1199年にロマーン偉大公がガーリチ公領とヴォルィニ公領を統一すると、統一公領の主都はヴラディーミル=ヴォルィンスキイに置かれた。しかしその子ダニイール・ガリーツキイはヴォルィニ公領を弟ヴァシリコ・ロマーノヴィチに委ねたため、ふたたび都市ガーリチがガーリチ公領の主都となる。
1241年のモンゴルの襲来により都市ガーリチは破壊される。都市ガーリチは以後往時の繁栄を取り戻すことができず、結局1260年代にはガーリチ公領の主都はリヴォーフに移る(ガーリチ=ヴォルィニ公領全体の主都は同時期にヴォルィニ公領のホルムに移る)。
1124-41 | 9 | イヴァン・ヴァシリコヴィチ | ガーリチ系 | (ヴァシリコ・ロスティスラーヴィチの子) |
1141-45 | 9 | ヴラディミルコ・ヴォロダーレヴィチ | ガーリチ系 | 従兄弟(ヴォロダーリ・ロスティスラーヴィチの子) |
1145 | 10 | イヴァン・ベルラードニク | ガーリチ系 | (ロスティスラーフ・ヴラディーミロヴィチの子) |
1145-53 | 9 | ヴラディミルコ・ヴォロダーレヴィチ | ガーリチ系 | 再任 |
1153-87 | 10 | ヤロスラーフ・オスモムィスル | ガーリチ系 | 子 |
1187-88 | 11 | オレーグ・ナスターシイチ | ガーリチ系 | 子 |
1188 | 11 | ヴラディーミル・ヤロスラーヴィチ | ガーリチ系 | 兄 |
1188 | 11 | ヴォルィニ公ロマーン偉大公 | モノマーシチ(ヴォルィニ系) | (ムスティスラーフ・イジャスラーヴィチの子) |
1189-90 | ─ | アンドレイ(本名アンドラーシュ) | アールパード家 | (ハンガリー王ベーラ3世の子/のちのハンガリー王2世) |
1190-99 | 11 | ヴラディーミル・ヤロスラーヴィチ | ガーリチ系 | 再任 |
1199-1205 | 11 | ロマーン偉大公 | モノマーシチ(ヴォルィニ系) | 再任 |
1205-06 | 12 | ダニイール・ガリーツキイ | モノマーシチ(ヴォルィニ系) | 子 |
1206-07 | 10 | ヴラディーミル・イーゴレヴィチ | スヴャトスラーヴィチ(セーヴェルスキイ系) | («イーゴリ公» の子) |
1207 | 10 | ロマーン・イーゴレヴィチ | スヴャトスラーヴィチ(セーヴェルスキイ系) | 弟 |
1207 | 11 | ロスティスラーフ・リューリコヴィチ | モノマーシチ(スモレンスク系) | (リューリク2世・ロスティスラーヴィチの子) |
1207 | 10 | ロマーン・イーゴレヴィチ | スヴャトスラーヴィチ(セーヴェルスキイ系) | 再任 |
1208-11 | 10 | ヴラディーミル・イーゴレヴィチ | スヴャトスラーヴィチ(セーヴェルスキイ系) | 兄/再任 |
1211-12 | 12 | ダニイール・ガリーツキイ | モノマーシチ(ヴォルィニ系) | 再任 |
1212 | 11 | ムスティスラーフ聾唖公 | モノマーシチ(ヴォルィニ系) | (ルーツク公ヤロスラーフ・イジャスラーヴィチの子) |
1213-15 | ─ | コロマーン(本名カールマーン) | アールパード家 | (ハンガリー王アンドラーシュ2世の子) |
1215-16 | 11 | ムスティスラーフ幸運公 | モノマーシチ(スモレンスク系) | (ムスティスラーフ・ロスティスラーヴィチ勇敢公の子) |
1216-19 | ─ | コロマーン(本名カールマーン) | アールパード家 | 再任 |
1219-26 | 11 | ムスティスラーフ幸運公 | モノマーシチ(スモレンスク系) | 再任 |
1226-29 | ─ | アンドレイ(本名アンドラーシュ) | アールパード家 | (ハンガリー王アンドラーシュ2世の子) |
1229-31 | 12 | ダニイール・ガリーツキイ | モノマーシチ(ヴォルィニ系) | 再任 |
1231-33 | ─ | アンドレイ(本名アンドラーシュ) | アールパード家 | 再任 |
1233-35 | 12 | ダニイール・ガリーツキイ | モノマーシチ(ヴォルィニ系) | 再任 |
1235-38 | 11 | ミハイール・フセヴォローディチ | スヴャトスラーヴィチ(チェルニーゴフ系) | (フセーヴォロド・スヴャトスラーヴィチ真紅公の子) |
1238 | 12 | ロスティスラーフ・ミハイロヴィチ | スヴャトスラーヴィチ(チェルニーゴフ系) | 子 |
1238-64 | 12 | ダニイール・ロマーノヴィチ | モノマーシチ(ヴォルィニ系) | 再任 |
1264-1301 | 13 | レフ・ダニイーロヴィチ | モノマーシチ(ヴォルィニ系) | 子 |
1301-16 | 14 | ユーリイ・リヴォーヴィチ | モノマーシチ(ヴォルィニ系) | 子 |
1316-24 | 15 | アンドレイ・ユーリエヴィチ & レフ・ユーリエヴィチ | モノマーシチ(ヴォルィニ系) | 子 |
1324-36 | 16 | ユーリイ・アンドレーエヴィチ? | モノマーシチ(ヴォルィニ系) | (アンドレイの子) |
1324-40 | 16 | ヴラディーミル・リヴォーヴィチ? | モノマーシチ(ヴォルィニ系) | (レフの子) |
1324-40 | ─ | ユーリイ(本名ボレスワフ・イェジ2世)? | ピャスト家 | 従兄弟(ワルシャワ公トロイデン1世の子) |
1340-83 | ─ | ドミートリイ(異教名リウバルタス) | ゲディミノヴィチ | (リトアニア大公ゲディミナスの子) |