ユーリイ・パトリケーエヴィチ
Юрий Патрикеевич
公 князь
ボヤーリン боярин
生:?
没:?
父:スタロドゥーブ公パトリケイ・ナリムントヴィチ (トゥーロフ=ピンスク公ナリマンタス)
母:?
結婚:1418
& マリーヤ (モスクワ大公ヴァシーリイ1世)
子:
名 | 生没年 | 分領 | 配偶者 | 生没年 | その親・肩書き | その家系 | |
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マリーヤ・ヴァシーリエヴナと | |||||||
1 | ヴァシーリイ | ||||||
2 | イヴァン | 1419-99 |
ゲディミノヴィチ。正教徒。リトアニア語ではユルギス・パトリケイェヴィチウス Jurgis Patrikejevičius。
1408年、父とともにモスクワに移住。モスクワ大公ヴァシーリイ1世に仕える。リトアニア大公の親族という出自の良さも手伝って、モスクワ宮廷で高い地位を占めた。
1425年には、ヴァシーリイ1世の遺言に証人のひとりとして署名している。
1433年以降のモスクワの内紛において、ユーリイ・パトリケーエヴィチは、義弟でもあるヴァシーリイ2世を常に支持した。1433年にユーリイ・ドミートリエヴィチに敗北したヴァシーリイ2世を追って、軍勢を率いてコストロマーに駆けつけたが、敗北。ユーリイ・パトリケーエヴィチはヴァシーリイ2世とともに捕虜となった。
1439年、カザン・ハーンのウル・ムハンマドがモスクワに侵攻。ヴァシーリイ2世に代わって、ユーリイ・パトリケーエヴィチがモスクワを防衛した。
これがユーリイ・パトリケーエヴィチが年代記に登場した最後となる。