リトアニア諸公

イヴァン・ユーリエヴィチ・パトリケーエフ

Иван Юрьевич Патрикеев

князь
ボヤーリン боярин

生:1419
没:1499

父:ユーリイ・パトリケーエヴィチ公スタロドゥーブ公パトリケイ・ナリムントヴィチ
母:マリーヤ (モスクワ大公ヴァシーリイ1世

結婚:
  & エヴドキーヤ (ヴラディーミル・グリゴーリエヴィチ・ホヴリン)

子:

生没年分領配偶者生没年その親・肩書きその家系
母親不詳
1ヴァシーリイ修道士ヴァッシアーン

ゲディミノヴィチ。正教徒。ロシア貴族。

 母方からすると、モスクワ大公イヴァン3世大帝の従兄弟。

 1455年、クリム・ハーン軍と戦う。
 1458年にゴルバートィイ公のヴャートカ遠征が失敗に終わると、翌1459年、代わりにイヴァン・ユーリエヴィチが派遣され、諸都市を攻略した。
 1462年、モスクワ大公ヴァシーリイ2世の遺言における証人のひとり。

 1467年、カザンに侵攻してモスクワに友好的なカシム=トレグブをハーンに就けようとしたが、これは失敗に終わった。
 1469年にもカザンに侵攻。イヴァン3世の弟ユーリイ & アンドレイ兄弟とともに、イブラヒムを屈服させ、有利な講和条約を結ばせた。

 1478年にはノーヴゴロド遠征に従軍。さほど表には出なかったが、イヴァン3世の片腕としてあらゆる交渉に携わり、ノーヴゴロドの併合に尽力した。
 1480年、キプチャク・ハーン軍の侵攻に際してはモスクワに残され、その防衛を委ねられた。

 リトアニア大公アレクサンドラスイヴァン3世の娘エレーナとの結婚交渉において、リトアニア側が最初に接触したのがイヴァン・ユーリエヴィチだった。つまりはそれだけ宮廷内においてイヴァン・ユーリエヴィチが重要な地位にあったということを示していると言える。

 イヴァン3世の後継者争いに絡んで、1499年に死刑を申し渡される。府主教の介入で命は救われ、三位一体セールギイ修道院で修道士となった。

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最終更新日 01 01 2012

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