アンドレイ・ヴァシーリエヴィチ・ゴリーツィン
Андрей Васильевич Голицын
公 князь
ボヤーリン боярин (1597-)
生:?
没:1611.03.19/03.29−モスクワ
父:ヴァシーリイ・ユーリエヴィチ・ゴリーツィン公 (ユーリイ・ミハイロヴィチ・ゴリーツィン公)
母:?
結婚:
& マリーヤ -1633 (ヴァシーリイ・ペトローヴィチ・モローゾフ)
子:?
ゲディミノヴィチ。正教徒。ロシア貴族。
史料への登場はボリース・ゴドゥノーフの治世になってから。1603年にはトボーリスク総督に任じられている。偽ドミートリイ1世によりモスクワに呼び戻された。
しかしアンドレイ・ヴァシーリエヴィチ公が活躍を始めるのは、ヴァシーリイ4世・シュイスキイの治世において。ボロートニコフの叛乱の鎮圧に加わり、その後は偽ドミートリイ2世との戦闘の中心となる。トゥーラで、モスクワ近郊で、偽ドミートリイ2世軍と干戈を交えた。
1610年、兄ヴァシーリイ・ヴァシーリエヴィチ公などがヴァシーリイ4世を廃位。アンドレイ・ヴァシーリエヴィチ公は、兄や他の大貴族たちとともに、後継ツァーリにはポーランド王太子ヴワディスワフを招くことを決定。兄を代表とする交渉団がスモレンスクに赴くと、アンドレイ・ヴァシーリエヴィチ公は、フョードル・ムスティスラーフスキイ公、イヴァン・ヴォロトィンスキイ公、アンドレイ・トルベツコーイ公、ボリース・ルィコフ=オボレーンスキイ公、イヴァン・ロマーノフ、フョードル・シェレメーテフとともに «セミボヤールシチナ» を形成し、モスクワの実権を握る。
当時は偽ドミートリイ2世軍もモスクワに進撃中であり、コサックを主力とする偽ドミートリイ2世軍に対抗するためにセミボヤールシチナはポーランド軍のモスクワ入城を認めた。しかしアンドレイ・ヴァシーリエヴィチ公は、モスクワを掌握したポーランド軍に偽ドミートリイ2世との通牒を疑われる。
ポーランド軍に対してモスクワ市民が蜂起した際に、ポーランド軍を招きいれた元凶としてアンドレイ・ヴァシーリエヴィチ公も暴徒に殺された。