タウトヴィラス
Tautvilas
ポーロツク公 князь Полоцкий (1254-63)
生:?
没:1263
父:ダウスプルンガス?
母:?
結婚:?
子:
名 | 生没年 | 分領 | 配偶者 | 生没年 | その親・肩書き | その家系 | |
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母親不詳 | |||||||
? | コンスタンティーン |
ロシア語ではトフティヴィル Товтивил。
ミンダウガスの甥。
妹が1249年頃にダニイール・ロマーノヴィチと結婚したと言われる。もしこの妹が初婚であったならば、その生年は1230年頃と考えられるだろうか。とするとタウトヴィラスも、もし同母兄妹であったならば、1220年代の生まれと想像することができよう。
父親は不明だが、タウトヴィラスは「ミンダウガスの甥」であったと言われる。ミンダウガスの兄弟はダウスプルンガスしか知られていないため、タウトヴィラスの父親はダウスプルンガスだったろうとされているにすぎない。
ゲドヴィダスは兄弟、ヴィキンタスは伯父・叔父だったとされる。
1248年、ゲドヴィダス、ヴィキンタスとともに、ミンダウガスによりスモレンスク征服に派遣される。タウトヴィラス等はプロトヴァ河畔の戦いでモスクワ公ミハイール・ホローブリトを破るが(ミハイール・ホローブリトは戦死)、ズブツォーフ近郊でヴラディーミル大公スヴャトスラーフ・フセヴォローディチに敗北。
敗北を知ると、ミンダウガスは3人の領土を併合。3人は1249年、ガーリチ公ダニイール・ロマーノヴィチのもとに逃亡。そこで、ヴラディーミル=ヴォルィンスキイ公ヴァシリコ・ロマーノヴィチ(ダニイールの弟)、リヴォニア騎士団、ジェマイティヤ貴族と結び、反ミンダウガス同盟を締結。なおこの時、ダニイール・ロマーノヴィチはタウトヴィラスの妹と結婚したと言われる。
タウトヴィラスは1250年にはリガに赴き、リガ司教よりキリスト教徒として洗礼されている。
1252年には、リトアニア内奥に攻め入ったが、ミンダウガスに撃退された。この間、ミンダウガスはリヴォニア騎士団と講和し、ローマ教皇に取り入って王位を獲得。さらにこの頃ヴィキンタスも死に、タウトヴィラス & ゲドヴィダスはガーリチ=ヴォルィニに退却することを余儀なくされた。
1254年、ダニイール・ロマーノヴィチがミンダウガスと講和。タウトヴィラスもミンダウガスの宗主権を認め、ポーロツクをもらった。
1258年から59年にかけて、ブルンダイ率いるモンゴル軍が、ガーリチ=ヴォルィニ軍をも引き連れてリトアニアに侵攻した際には、タウトヴィラスはミンダウガスを助けてモンゴル・ガーリチ=ヴォルィニ連合軍と戦っている。
1263年、ミンダウガスがトレニオタに殺される。この時タウトヴィラスもまた殺されており、リトアニア王位を巡る争いが原因だとされるが、そもそもタウトヴィラスはトレニオタとともにミンダウガス暗殺にかかわっていたとする文献もある。