ミンダウガス
Mindaugas
リトアニア王 (1253-63)
生:?
没:1263.09.12
父:?
母:?
結婚①:
& ?
結婚②:
& モルタ? (ヴィスマンタスの妻?)
結婚③:1262
& ? (モルタの妹、ダウマンタスの妻)
子:
名 | 生没年 | 分領 | 配偶者 | 生没年 | その親・肩書き | その家系 | |
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最初の妻と? | |||||||
1 | ヴァイシュヴィルカス | -1267 | リトアニア大公 | ||||
2 | ? | シュヴァルン・ダニイーロヴィチ | -1269 | ガーリチ公 | リューリク家 | ||
モルタと | |||||||
レプリス | |||||||
ゲルストゥカス | |||||||
3 | ルクリス | -1263 | |||||
4 | ルペイキス | -1263 |
ロシア語ではミンドヴグ Миндовг。
ダウスプルンガスの弟と考えられている。姉妹がヴィキンタスかエルドヴィラスの妻だったのではないかと想像される。ガーリチ公ダニイール・ロマーノヴィチの妻(後妻)も、一般的にはミンダウガスの姪とされるが、時にミンダウガスの妹とされることがある(おそらく間違い)。
タウトヴィラス & ゲドヴィダス兄弟、およびトレニオタはミンダウガスの甥とされる。
モルタの子がまだ幼い時に、ヴァイシュヴィルカスと、シュヴァルン・ダニイーロヴィチの妻はすでに一人前になっていたと思われるため、モルタ以前にも妻がいたと考えられる。
1219年のガーリチ=ヴォルィニ公ダニイール・ロマーノヴィチとの条約には、兄ダウスプルンガスとともに «年長の公» として署名している。この条約には、リトアニア側から21人の公が署名しており、当時のリトアニアが依然として複数の部族的・地縁的・血縁的集団に分裂していたことを示している。この中で、ミンダウガスはダウスプルンガスとともに、5人の «年長者» に数えられている。
1263年に暗殺されたミンダウガスが、1219年の時点ですでに40代だったとは考えづらい。常識的には、せいぜい20代だったのではないだろうか。ダウスプルンガスも、兄とはいえ、せいぜい30代であったろう。とすると、若いふたりが «年長の公» 5人のうちに数えられているということは、おそらく兄弟の父親が有力者だったということなのだろうと想像される。
この条約には、ジェマイティヤの公としてヴィキンタスとエルドヴィラスだけが名を連ねている。それだけこのふたりが有力者だったのだろうが、ヴィキンタスと(あるいはエルドヴィラスとも)、ダウスプルンガス & ミンダウガスの兄弟は婚姻を通じて関係を持っていた。
ジェマイティヤ(サモギティア)とは、現リトアニア西部。ミンダウガス以降歴代のリトアニア大公が統一の核とした東部アウクシュタイティヤと異なり、ジェマイティヤは北のリヴォニア騎士団、南西のドイツ騎士団から、両騎士団を結ぶ回廊として常に狙われ、このためアウクシュタイティヤへの統合が遅れた。14世紀半ばからはおそらくケーストゥティスとその子孫の «ヴォーッチナ(父祖伝来の世襲地)» 扱いされ、それもあってアウクシュタイティヤとは異なるという独自意識を後々まで保持した。
後世に編まれた年代記によれば、1236年にはリトアニアの支配者であったとされる。しかし1219年から1236年まで、ミンダウガスがいかなる経緯でリトアニアにおける最高権力を手にしたかはまったく不明である。その支配領域も不明だが、おそらくリトアニア本土(アウクシュタイティヤ)だけで、西部ジェマイティヤは(影響力は持っていただろうが)完全に服属させるに至っていなかったのではないかと想像される。
なお、ダウスプルンガスが1219年の条約以外には名を現さず、おそらく1236年の時点では死んでいたものと思われる。
この1236年、サウレの戦いでリヴォニア騎士団はリトアニアに大敗を喫し、そのリトアニアへの進出が一時的に阻まれている。しかしミンダウガスがこの戦いでどのような役割を果たしたかは不明である(多くの学者が、この戦いの主役はジェマイティヤの公であったヴィキンタスだと考えている)。
リヴォニアとは、一般的に、狭義には現エストニア南部と現ラトヴィア北部、広義には現エストニアと現ラトヴィアをあわせた地域を指す。10世紀以来、沿岸部は «ヴァイキング» の、内陸部はキエフ・ルーシの影響を受けた。ユーリエフ(現タルトゥ、エストニア)がルーシによって建てられた都市であった事実が、それを示唆している。特に12世紀以降はポーロツク公の進出も著しい(と想像される)。
12世紀後半、この地域にドイツ人が進出を開始。1201年にはドイツ人の都市リガが築かれ、1202年には刀剣騎士団、あるいは «リヴォニア騎士団» が結成された。
ちなみに、«ドイツ騎士団» というのはリヴォニア騎士団とはまったく別の集団である。こちらは1189年に聖地に建てられた十字軍士のための病院が起源となっている。その後ホスピタル騎士団(ロードス騎士団、マルタ騎士団)にならって騎士団組織となり、ホスピタル騎士団とテンプル騎士団がどちらもフランス人主体だったため、ドイツ人主体になり、その結果 «ドイツ騎士団» との通称を得た。1208年、聖地からトランシルヴァニアに移転。1226年、マゾフシェ公に招聘され、プロイセンに移転。
プロイセンには多数のドイツ人が入植し、このため先住のプロイセン人(プルシ人)はドイツ人に同化され、ドイツ騎士団も盛んであった。これに対してリヴォニアにはそれほど多くのドイツ人が入植しなかったため、先住のラトヴィア人やエストニア人は民族的アイデンティティを維持し、またドイツ騎士団に比してリヴォニア騎士団は弱体であった。
サウレの敗戦により、1237年、リヴォニア騎士団はドイツ騎士団に併合された(ドイツ騎士団の «リヴォニア支部» といった位置づけになる)。このため、法的にはこれ以降 «リヴォニア騎士団» をドイツ騎士団と分けることはできないが、ここでは慣例に従いリヴォニアを拠点とする騎士集団をリヴォニア騎士団と呼び続けることにする。なお、ルーシ系の史料は両騎士団を基本的に区別せず、無差別に «ドイツ人» と呼んでいる。
ミンダウガスは南への進出を優先し、おそらく1230年代に «黒ルテニア» を制圧したと思われる。これはノヴォグルードク、グロドノなど現ベラルーシ西部であり、1239年頃にヴァイシュヴィルカスをここの公として派遣した。
1241年、ノーヴゴロドを除くルーシを制圧したモンゴル軍が、黒ルテニアをも攻略し、さらにポーランドに侵攻。その後南下し、ハンガリー、バルカン半島を蹂躙した。しかしこの時、リトアニア本土は難を逃れている。モンゴル軍にとって魅力のない土地だったのだろう。
西のポーロツク公領については、この頃の情勢はまったくわかっていない。しかしおそらくモンゴル襲来の混乱に乗じてミンダウガスが勢力圏に取り込んだのではないかと考えられる。と言うのも、1239年にアレクサンドル・ネフスキイがヴィテブスク公ブリャチスラーフ・ヴァシリコヴィチ(ポーロツク公でもあったと想像されている)の娘と結婚しているが、1248年にミンダウガスはポーロツクとヴィテブスクを飛び越えてスモレンスクへ軍を派遣しているからである。おそらくこの間に、ミンダウガスがポーロツクを制圧したのであろう。
1248年、ミンダウガスはゲドヴィダス、タウトヴィラス、ヴィキンタスの3人をスモレンスク征服のため派遣。3人はプロトヴァ河畔の戦いでモスクワ公ミハイール・ホローブリトを破るが、ズブツォーフ近郊の戦いでは逆にヴラディーミル大公スヴャトスラーフ・フセヴォローディチに敗北する。
敗北の知らせを聞いたミンダウガスは、3人の領土を併合。3人は1249年にガーリチ=ヴォルィニに逃亡。そこで、ガーリチ=ヴォルィニを支配するダニイール & ヴァシリコのロマーノヴィチ兄弟、リヴォニア騎士団、そしてミンダウガスの勢力拡大に反発するジェマイティヤと同盟を結び、ミンダウガスへの反抗を開始した。
1250年、リヴォニア騎士団はナルシアに侵攻し、ミンダウガスの本拠が脅かされた。これに対してミンダウガスは、リヴォニア騎士団とリガ司教との反目を利用して北からの脅威を分散。さらにローマ教皇インノケンティウス4世と交渉し、カトリックへの改宗を決意。正確にいつ改宗したかは不明だが、ミンダウガス自身に加え、妻と子ら、さらには貴族たちも大量に改宗したと伝えられる。これによりリヴォニア騎士団とリガ司教の脅威を取り除いた。
1251年のタウトヴィラスの攻撃を凌ぎきると、この頃ヴィキンタスが死んだと思われ、タウトヴィラスもガーリチへと退いていった。
ナルシアとは、厳密な地理は不明ながら、おおよそリトアニア北東部であったと考えられている。
1253年、リトアニア王として戴冠。もっとも正確な日付と場所は不明。
ミンダウガスはドイツ騎士団・リヴォニア騎士団にジェマイティヤ等西部地域の一部を割譲し、最終的に北部の情勢を安定化させた。さらに1255年にはダニイール・ロマーノヴィチとも講和。黒ルテニアをその息子ロマーンに与え、さらに娘を別の息子シェヴァルンと結婚させた。またタウトヴィラスにはポーロツクを与え、自身の宗主権を認めさせた。
こうしてミンダウガスは、ついに全面的な平和を勝ち取った。
1237年の合同以降、ドイツ騎士団とリヴォニア騎士団の目標のひとつが、両者の領土(プロイセンとリヴォニア)を結ぶ回廊を確保することであり、それがバルト海沿岸部のジェマイティヤだった。
1258・59年、ブルンダイ率いるモンゴル軍がリトアニアに侵攻。これにはその配下としてガーリチ=ヴォルィニ軍も加わっていたが、ミンダウガスは何とか持ち堪えた。
1259年と60年、ドイツ騎士団はジェマイティヤの叛乱に直面。これはゼムガレ人、プルシ人の叛乱をも引き起こし、この情勢に付け込んだミンダウガスは1261年、ドイツ騎士団と手を切り、ドイツ騎士団との戦いに備えてノーヴゴロド公ドミートリイ・アレクサンドロヴィチと協定を結ぶ。
なお、この時ミンダウガスはキリスト教を棄てて異教に戻ったと言われるが、確実な証拠は存在しない。
この混乱の中、ジェマイティヤの叛乱の中心人物として台頭してきたのが、ミンダウガスの甥とされるトレニオタであった。
ゼムガレ人とは、ゼムガレ/セミガリア(現ラトヴィア中南部)にいたバルト系民族。リヴォニア騎士団の進出に抵抗したが、1290年頃にはその圧力に抗しきれず、リトアニアに移住。リトアニア人に同化された。
プルシ人とは、プルシ/プロイセン/プロシア(現ロシア連邦カリーニングラード州およびその周辺)にいたバルト系民族。ドイツ騎士団の本拠地としてその支配下に置かれた。1260年から74年まで続いた蜂起は «大プルシ人蜂起» と呼ばれる。1295年の蜂起を最後に、大規模な抵抗運動は終息し、以後徐々にドイツ人(やポーランド人、リトアニア人)に同化されていった。
東方でも、タウトヴィラスがヴラディーミル大公アレクサンドル・ネフスキイと結んでミンダウガスと対立。
1263年、軍をセーヴェルスカヤ・ゼムリャーに派遣する。軍はチェルニーゴフを占領しブリャンスクへと進むが、この時本国ではミンダウガスが、トレニオタとダウマンタスに殺された。