聖ダウマンタス
Daumantas Pskoviškis
ナルシア公
プスコーフ公 князь Псковский (1266-99)
生:?
没:1299.05.17
父:?
母:?
結婚:
& マリーヤ (ヴラディーミル大公ドミートリイ・アレクサンドロヴィチ)
子:
名 | 生没年 | 分領 | 配偶者 | 生没年 | その親・肩書き | その家系 | |
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マリーヤ・ドミートリエヴナと? | |||||||
? | ダヴィド | -1326 |
ロシア語ではドヴモント Довмонт。
キリスト教徒(正教徒)としての洗礼名はティモフェーイ。
生年は1240年頃と考えられている。
ミンダウガスの子でヴァイシュヴィルカスの兄弟とする文献がある。トライデニスの兄とする文献もある。
リトアニア北部のナルシアの公として、リトアニア諸公に対する宗主権を確立したミンダウガスの権利を認めていた。ダウマンタスの妻はミンダウガスの妻モルタ(?)と姉妹であった。
ナルシアとは、厳密な地理は不明ながら、一般的にリトアニアの北東国境地域と考えられている。リヴォニア騎士団との最前線に位置したためか、ダウマンタスのほかにも、ゲルデニス、スクセなどの公がいたらしい。レングヴェニスもナルシアの公であったとされることがある。
1263年、ジェマイティヤの公であったトレニオタに与し、ミンダウガスを殺した。
ルーシ系の年代記によると、ミンダウガスは、妻モルタを亡くした後、モルタの妹であったダウマンタスの妻を自らの妻として奪い取ったという。ミンダウガスがブリャンスクに大軍を派遣した際にダウマンタスもこれに従軍したが、途中で引き返し、ミンダウガスを殺した。
しかし1264年、ミンダウガスの遺児ヴァイシュヴィルカスがガーリチ=ヴォルィニ、ピンスク、ノーヴゴロドなどの支援を得てリトアニアに侵攻。トレニオタは死に、ヴァイシュヴィルカスがリトアニアを平定した。ダウマンタスは追われ、1265年になってプスコーフに逃げ落ちた。
プスコーフにてダウマンタスは正教に改宗。マリーヤ・ドミートリエヴナ(前ノーヴゴロド公の娘)と結婚した(ただしマリーヤ・ドミートリエヴナとの結婚はまた後のことだともされる)。
プスコーフ軍の指揮を委ねられたダウマンタスは、1266年、西ドヴィナー(ダウガヴァ)河畔にてリトアニア軍を撃破。さらに進軍し、ゲルデニスの領土を蹂躙。その妻と息子を捕虜とした。西ドヴィナー(ダウガヴァ)は、ヴィテブスク、ポーロツクを経てラトヴィアに入り、リガを通ってバルト海(リガ湾)に注ぐ。その南は、東ではポーロツク公領、西ではリトアニア(ナルシア)である。ゲルデニスは元来、ダウマンタスと同じくナルシアの公であったとされているが、この頃ポーロツク公であったとの説もある。この時ダウマンタスが攻め込んだのがナルシアだったのかポーロツクだったのかは定かではない。
その軍事指揮能力を見込まれて、ダウマンタスはプスコーフ公となった。
プスコーフはノーヴゴロド公領の一部であったが、ノーヴゴロドからの自立傾向を強めていた。ダウマンタスに公位を与えたのも、その一環だったと言える。これにはノーヴゴロドが反発。特に反発したのが、甥に代わってノーヴゴロド公となったばかりのヤロスラーフ・ヤロスラーヴィチであった。
しかしノーヴゴロドは、膨張するリトアニアやリヴォニア騎士団との戦いにおいては、最前線に位置するプスコーフを支援する立場にあった。このため、ダウマンタスに対する軍事行動を主張したヤロスラーフ・ヤロスラーヴィチを抑え、逆にダウマンタスの指揮下にノーヴゴロド・プスコーフ連合軍を編成し、1267年、再びゲルデニスの領土(ナルシア? ポーロツク?)に侵攻し、ゲルデニスを敗死させた。
1268年には、リヴォニア騎士団がノーヴゴロド公領に侵攻。ダウマンタスはプスコーフ軍を率い、ヤロスラーフ・ヤロスラーヴィチとドミートリイ・アレクサンドロヴィチの率いるノーヴゴロド軍と協同してこれを撃退した。1269年にはリヴォニア騎士団はプスコーフそのものを攻囲。ダウマンタスはこの時もノーヴゴロド軍の支援を得てこれを撃退。ダウマンタスは軍事指揮官としての名声を確立した。
1270年、ヤロスラーフ・ヤロスラーヴィチは再びプスコーフに侵攻。アイグストなる人物(名前からしてリトアニア人)をプスコーフ公に据えた。しかしダウマンタスはこれを撃退。マリーヤ・ドミートリエヴナとの結婚はこの時だとも言われる。
マリーヤ・ドミートリエヴナも、その父ドミートリイ・アレクサンドロヴィチも、その生年は不明ながら、ドミートリイ・アレクサンドロヴィチの両親は1239年に結婚しており、マリーヤ・ドミートリエヴナの兄弟イヴァン・ドミートリエヴィチが1268年頃の生まれとされているので、おそらくマリーヤ・ドミートリエヴナの生年もせいぜい1260年代後半だったろう。いかに政略結婚だったとはいえ、1270年、ましてや1265年では、あまりにマリーヤ・ドミートリエヴナが幼すぎるのではないだろうか。
1282年、ヴラディーミル大公位を追われたドミートリイ・アレクサンドロヴィチがノーヴゴロドに逃亡し、ノーヴゴロドにもはねつけられた時、ダウマンタスは軍を出してドミートリイ・アレクサンドロヴィチの逃亡を支援している。
ルーシの年代記によると、1285年、リトアニアの公ドヴモントがトヴェーリに侵攻。ルーシ諸公連合軍がこれを破り、ドヴモントは捕虜になった。この記述から、ダウマンタスはこの時期リトアニア大公だったとする説がある。確かに、トライデニスは1282年に死んでおり、続くブティゲイディスの名は1289年が初出である。他方でダウマンタスに関する記述も、1282年から99年までの間は空白となっている。
とすると、1282年にトライデニスが死んでダウマンタスがプスコーフからリトアニアに戻り、大公位に就いたということになろうか。しかし、ミンダウガス、ヴァイシュヴィルカス、シュヴァルナスと続いたキリスト教君主に対する反発を後押しにして異教徒のトライデニスがリトアニア大公になったとすれば(一般的にはそう考えられている)、そのトライデニスの死後にキリスト教徒のダウマンタスが大公位を継いだとは少々考えづらい気がする。このリトアニア大公のダウマンタスは、プスコーフ公ダウマンタスとは別人だとする説の方が一般的だと思われる。
なお、ダウマンタスがリトアニア大公であったとすれば、1285年にルーシ諸公の捕虜となったことで大公位を失い、ブティゲイディスが継いだと考えられている。その後釈放されたダウマンタスは、プスコーフに戻ったということだろう。
1299年、リヴォニア騎士団が侵攻。ダウマンタスはこれを撃退するが、その直後に発病し、突然の死を迎える。遺骸はプスコーフの三位一体大聖堂に埋葬された。
ロシア正教会から列聖されている。