ジグムント
Zygmunt Kiejstutowicz
スタロドゥーブ公 князь Стародубский (1398-1432)
リトアニア大公 (1432-40)
生:1365頃−トラカイ
没:1440.03.20−トラカイ
父:トラカイ公ケーストゥティス (リトアニア大公ゲディミナス)
母:?
結婚:?
子:
名 | 生没年 | 分領 | 配偶者 | 生没年 | その親・肩書き | その家系 | |
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母親不詳 | |||||||
1 | ミハウ | -1452 | トラカイ |
ゲディミノヴィチ。カトリック。リトアニア語ではジギマンタス・ケーストゥタイティス Žygimantas Kęstutaitis、ロシア語ではシギズムンド・ケイストゥトヴィチ Сигизмунд Кейстутович。
ジグムントというのはリトアニア語でジギマンタスとなるが、これは «ジギス(軍)» + «マンタス(富)» という意味らしい。ただしこれはどう考えても、ドイツ語ジギスムントの音訳である。
ブルグンド王シギスムンド(聖人)の遺骸が皇帝カール4世によってプラハに移されたのが14世紀半ば。そのためこの時期は聖シギスムンドに対する崇拝熱が高まっていた。カール4世自身、自分の息子にジギスムントと名づけている(のちの皇帝)。おそらくジグムントもこの聖者にあやかって名づけられたのだろう。
ただしこの名がつけられたのは、おそらくかれがカトリックに改宗した時。父は終生異教徒にとどまり、兄たちもみな異教徒としてリトアニア語の名前を持っている。異教徒の父が、カトリックの聖者にあやかって息子を名づける謂れはない。おそらくジグムントにも本来別の名前があったろうと思われるのだが、伝わっていない。
なお、カトリックであるので見出しではポーランド語で «ジグムント» と表記したが(当コンテンツ内での一貫性を保つため)、ポーランドとは無縁な人物であるので、本文中ではリトアニア語で «ジギマンタス» と表記する。
1382年、父がヨガイラの捕虜となり、その直後に死去。ジギマンタスもヨガイラの捕虜となった。
1384年、ジギマンタスは逃亡。リヴォニアの兄ヴィタウタスのもとに駆けつけた。おそらくこの時にジギマンタスはカトリックに改宗したのだろう(当然ジギマンタスという名もこの時もらったものと思われる)。この年、ヴィタウタスはヨガイラと講和。
1389年、ヴィタウタスが、ヨガイラの代理としてリトアニアを統治していたスキルガイラとの戦争を始めると、ジギマンタスはプロイセンに派遣され、ドイツ騎士団との同盟交渉をおこなった。ただし、交渉終了後もジギマンタスは、ヴィタウタスが裏切らない保証として、家族とともにマリエンブルクにとどめ置かれた。1394年にヴィタウタスがヨガイラと講和してリトアニア大公となると、ジギマンタスは投獄された。冷たい兄である。
1398年、ヴィタウタス & ヨガイラはドイツ騎士団と講和。これによりジギマンタスも9年振りにリトアニアに帰国した。
ヴィタウタスの下、ジギマンタスはスタロドゥーブを領土とし、ヴォールスクラの戦い(1399)やグリュンヴァルト/タンネンベルクの戦い(1410)に従軍。ドイツ騎士団との講和(1411、22)、ポーランドとの条約(1401、11、13)にも署名しているが、特に目立った活動はしていない。
1430年にヴィタウタスが死ぬと、他のリトアニア貴族と同じく、シュヴィトリガイラの大公位継承を支持した。
シュヴィトリガイラはポーランドから距離を置き、ポーランド王ヨガイラやポーランド貴族と対立。他方でリトアニア貴族は、必ずしもシュヴィトリガイラ支持一色で染まっていたわけではない。詳細は一切不明ながら、おそらくいつしかジギマンタスは反シュヴィトリガイラ派に与するようになっていったものと思われる。
1432年、クーデタ。シュヴィトリガイラは取り逃がしたものの、ヴィリニュスを掌握。親ポーランド派貴族の支持でリトアニア大公となり、ヨガイラとグロドノ条約を結んでその支持も取り付けた。
しかしリトアニアはジギマンタス支持派とシュヴィトリガイラ支持派とに二分された。地理的に図式化すると、リトアニア本土とジェマイティヤ、黒ルテニアなど旧来のリトアニア大公領がジギマンタスを支持。これに対してポーロツク、スモレンスク、キエフ、ヴォルィニなど、黒ルテニアを除くルーシは基本的にシュヴィトリガイラ側についた。
シュヴィトリガイラ派貴族の歓心を買うために、1434年、正教貴族にカトリック貴族と同等の権利を認めた。しかしこれはすでに1430年にシュヴィトリガイラが認めていたものであり、大きな影響はなかった。
大勢を決したのは軍事的勝利であり、1435年のパバイスカス/ヴィウコミェシュの戦いでシュヴィトリガイラとドイツ騎士団(主体はリヴォニア騎士団)の連合軍を破ったことで、ジギマンタスの大公位が確立した。シュヴィトリガイラの抵抗も、1437年以降はなくなった。
ジギマンタス支持の貴族も、ポーランドに従属する現状を無批判に容認していたわけではない。それもあってジギマンタスは、自身の権威を確立した後、徐々にポーランド離れを示すようになる。特に、1437年にドイツ王となったアルプレヒト2世に接近。反ポーランド同盟の交渉を開始した。1437年に皇帝・ボヘミア王・ハンガリー王ジギスムントが死ぬと、アルプレヒト2世がそのすべてを継承することになっていたが、ポーランド貴族がボヘミア王位に食指を伸ばしていたのである。
1440年、暗殺される。下手人はイヴァン & アレクサンドル・ヴァシーリエヴィチのチャルトルィスク公兄弟だと言われる。
暗殺の原因については、かれらがシュヴィトリガイラ支持派だったからとするものが多いが、同時に、ジギマンタスの貴族に対する政策に反発したためだとされることもある。