リトアニア諸公

ヴィタウタス «ディディシス»

Vytautas Kęstutaitis "Didysis"

グロドノ公 князь Городненский (1370-82)
ルーツク公 князь Луцкий (1387-89)
リトアニア大公 (1392-1430)

生:1350頃−トラカイ?
没:1430.10.27

父:トラカイ公ケーストゥティス (リトアニア大公ゲディミナス
母:?

結婚①:1370?
  & アンナ (スモレンスク大公スヴャトスラーフ・イヴァーノヴィチ?)

結婚②:1414?
  & ウリヤーニヤ (イヴァン・オリギムンドヴィチ・ゴリシャンスキイ/ヨナス・アルシェニシュキス)

子:

生没年分領配偶者生没年その親・肩書きその家系
アンナと
1ソフィヤ1371-1453ヴァシーリイ1世1371-1425モスクワ大公リューリク家

ゲディミノヴィチ。ロシア語ではヴィトフト Витовт Кейстутович。

 1368年と72年、伯父アルギルダスのモスクワ遠征に従軍。

 父から、その分領の一部(グロドノ)の当地を委ねられていたとされる。あるいはそのためか、のちにリトアニア大公となった後も、首都ヴィリニュスよりもグロドノを好んだ。

 1377年、伯父アルギルダスが死去。その子ヨガイラが後を継いだ。それまでアルギルダスと父ケーストゥティスは協調してリトアニアを支配していたが、父とヨガイラとの関係はうまくいかなかった。
 1380年、ヨガイラケーストゥティスを仮想敵とする秘密協定を、ケーストゥティスの仇敵ドイツ騎士団と結ぶ。1381年、これを知ったケーストゥティスはヴィリニュスを占領。ヨガイラを捕らえ、自らリトアニア全土の君主となる。
 ヨガイラは逃亡し、1382年、ドイツ騎士団の支援を得てリトアニアに侵攻。両陣営は対峙するが、ケーストゥティスが講和を提案。ケーストゥティスとヴィタウタスが交渉のためヨガイラの陣営に赴いたところ、ふたりは捕らえられ、クレヴォに監禁された。直後にケーストゥティスが死去。ヴィタウタスは逃亡し、今度はかれがドイツ騎士団のもとに身を寄せた。この時カトリックに改宗したとする文献もあるが、疑わしい。
 1384年、ヨガイラと和解し、グロドノ、ブレストを与えられる(のちにヴォルィニも)。

 1385年、クレヴァス/クレヴォ条約に調印。これに基づき1386年、ヨガイラはカトリックに改宗し、ポーランド王に即位した。この時ヴィタウタスもまたカトリックに改宗したとされる(洗礼名はアレクサンドラス Aleksandras/アレクサンドル Александр)。

 1386年、ヨガイラはポーランド王に即位。弟スキルガイラをリトアニア副王に任命する。

 1386年、スモレンスク大公スヴャトスラーフ・イヴァーノヴィチが、リトアニア領ムスティスラーヴリに侵攻。ヴィタウタスが軍を率いて救援に駆けつけた。スヴャトスラーフ・イヴァーノヴィチを戦死させたヴィタウタスは、さらに東進してスモレンスクを占領し、ユーリイ・スヴャトスラーヴィチスモレンスク大公に据えた。こうして事実上スモレンスクを属国とした。

 スキルガイラはリトアニアでは不評だった。もともとヴィタウタスは、自らがリトアニアの支配者たらんと欲していたこともあり、1389年、ドイツ騎士団と結んでヨガイラとの内戦を再開。さらにモスクワとも協調し、1391年、娘ソフィヤを大公ヴァシーリイ1世と結婚させる。
 リトアニア貴族は、ヨガイラがポーランド王としての立場を優先して主にクラクフに居を構え、ポーランドのことにかまけているのを快く思っておらず、スキルガイラの不人気も手伝って、ヴィタウタスは有利に戦況を運ぶことができた。
 1392年、アストラヴァス/オストルフ条約でヨガイラと和解し、リトアニアの支配権を与えられた。

 リトアニアの支配者になるやいなや、ヴィタウタスはモスクワとの協調関係を破棄。祖父以来の方針を継承し、モスクワと対抗してルーシに領土を拡大する政策を採る。

 1392年、スモレンスクで内紛が勃発し、市民が大公ユーリイ・スヴャトスラーヴィチを追い、代わりにグレーブ・スヴャトスラーヴィチを大公に就けた。
 ヴィタウタスは一旦はこれを承認するものの、1395年、内紛を収拾するとの名目で、スモレンスク大公一族をヴィリニュスに召還して幽閉。スモレンスクを占領し、これを併合した。
 なお、ブィホヴェツ年代記はヴィタウタスの妻アンナをユーリイ・スヴャトスラーヴィチの姉妹だとしているが、当時の年代記はヴィタウタスとスモレンスクとの縁戚関係については何ひとつ述べていない。

 国内的にも、ヴィタウタスは、中央集権化をはかって諸公に対する締め付けを始める。1393/94/95年頃に、フョードル・リュバルトヴィチからヴラディーミル=ヴォルィンスキイを、フョードル・コリアトヴィチからポドーリエを、カリブタスからノーヴゴロド=セーヴェルスキイを、シュヴィトリガイラからヴィテブスクを、ヴラディーミル・オリゲルドヴィチからキエフを取り上げた。

 1395年、ティムールに敗北したキプチャク・ハーンのトクタミシュが、ヴィタウタスに支援を要請してきた。見返りにルーシに対する宗主権の譲渡を提示しており、ヴィタウタスにとっては、願ってもない好条件であったと言えよう。
 1397年、ヴィタウタスはポドーリエから黒海に達する。1398年にはドニェプル河をくだってクリミア半島に攻め込み、さらに東進してドン河にまで到達した。リトアニアの領土は、現ウクライナの西部全域に及ぶことになった。

 1398年、ヨガイラとともにドイツ騎士団と講和し、ジェマイティヤを割譲する。こうして西方の憂いをなくしたヴィタウタスは、ルーシ諸公、モルドヴァ、さらにドイツ騎士団をも引き連れて、1399年、キエフから東進。ドニェプル河をくだり、ヴォールスクラ河畔のポルターヴァ近郊(310年後に同じく画期的な戦闘の行われるまさにその場所)にて、キプチャク・ハーン軍と遭遇した。しかしこの戦いで、数と装備で勝るリトアニア軍はキプチャク・ハーン軍に大敗を喫する。アンドレイ & ドミートリイの兄弟やモルドヴァ公シュテファン1世は戦死し、ヴィタウタスも命からがら逃げ延びた。

 ヴォールスクラ河畔の敗戦は、ヴィタウタスにとっては大きな転機となった。スモレンスクはリトアニアの支配から脱して独立を回復した。南方への領土拡大の夢は絶たれ、ヴィタウタスは以後東方への進出に専念することになる。さらにノーヴゴロドもプスコーフもリトアニアから距離を置くようになり、何よりヨガイラ(ポーランド)からの分離独立を断念させられた。

 1401年、ヴィタウタスはヨガイラとヴィリニュス・ラドム条約を結ぶ。この条約の内実については諸説あるが、ヴィタウタスがヨガイラの宗主権下に位置づけられたものと見ていい。

 1401年、ジェマイティヤがドイツ騎士団に叛乱。ヴィタウタスはこれを支援した。これに対して、ヴィタウタスのリトアニア支配に不満を覚えていたシュヴィトリガイラが、ドイツ騎士団と結び、叛乱。
 1404年、ドイツ騎士団と講和を結び、ドイツ騎士団によるジェマイティヤ領有を確認した。ドイツ騎士団はシュヴィトリガイラに対する支援をやめ、逆にヴィタウタスの東方進出を支援することを約束した。

 1404年、スモレンスクを再征服。

 1406年から1408年まで、モスクワ大公ヴァシーリイ1世と対立。毎年のように互いに軍を出陣させるが、砲火は交えられなかった(そのたびに停戦していた)。1408年、ヴァシーリイ1世と講和。オカー・ウグラを両国の国境とすることで合意した。これにより、スモレンスクと上流諸公領をリトアニア領として認めさせた。
 なお、リトアニアとモスクワの武力衝突は、以後1487年までなかった。

 ヴィタウタスは1409年から18年までシュヴィトリガイラを監禁する。

 1409年、再びジェマイティヤがドイツ騎士団に叛乱。ヴィタウタスは再びこれを支援した。
 1410年、ヴィタウタスはヨガイラとともにプロイセンに侵攻。グリュンヴァルト/タンネンベルクの戦いで、ドイツ騎士団を完膚なきまでに打ち破る。マリエンブルク(マルボルク)攻囲は失敗に終わったものの、これによりドイツ騎士団の脅威は消えた。
 1411年、トルニ条約でドイツ騎士団と講和。ジェマイティヤを奪回した。

 1411年、ポドーリエがポーランド領からリトアニア領に。

 1413年、ホロドウォ条約により、ポーランド=リトアニア関係を再構築。これにより、ヴィタウタス死後もリトアニアは独自の大公を持つことを定めた(ただしポーランド王はリトアニア議会の、リトアニア大公はポーランド議会の承認がなければ選出され得ないとされた)。リトアニアのカトリック貴族にポーランド貴族と同等の権利を認めた(ただし正教貴族の権利は無視された)。

 トルニ条約はジェマイティヤをリトアニア領としたものの、そもそもジェマイティヤの領域が定められていなかった。ヴィタウタスはクライペダ/メーメルを含むネムナス川/ネマン川右岸全域がジェマイティヤに含まれるとして、クライペダ/メーメルを譲渡しようとしないドイツ騎士団と対立。ドイツ王ジギスムントが仲裁したものの、クライペダ/メーメルをリトアニア領としたその決定にドイツ騎士団が反発。こうしてポーランド・リトアニアとドイツ騎士団との戦争が再開された。
 1414年、ヴィタウタスはヨガイラとともにプロイセンに侵攻。ドイツ騎士団は、これに焦土作戦で対抗する。グリュンヴァルト/タンネンベルクの敗戦の痛手から立ち直っていないドイツ騎士団は直接戦闘を避けに避け、こうして両者はその年のうちに休戦に合意した。
 のち、焦土作戦の結果、プロイセンは飢饉に見舞われた。このためこの戦争を «飢饉戦争» と呼ぶ。

 1419年、ボヘミア王ヴァーツラフ4世が死去。弟のドイツ王ジギスムントがボヘミア王位を継ぐが、ヤン・フスとイェロニームを火刑に処したことが祟り、フス戦争が勃発。ジギスムント軍はフス派のボヘミア貴族に敗北した。
 1420年、ジギスムントは、ジェマイティヤを巡るポーランド・リトアニアとドイツ騎士団の紛争について裁定を下す。これはドイツ騎士団に有利なものであり、おそらくジギスムントがフス派との戦争においてドイツ騎士団の支援を期待した結果であろう。しかし当然これにヨガイラもヴィタウタスも反発した。
 1421年、フス派のボヘミア貴族が、ヨガイラにボヘミア王位を提供してくる。公会議で異端と宣告されたフス派に与することは不利益極まりなく、ヨガイラも、次いで提供を受けたヴィタウタスも、ともに断っている。他方で、フス派はヨガイラとヴィタウタスにとって、ジギスムント・ドイツ騎士団連合を共通の敵とする同志である。ヴィタウタスはジグムント・コリブトヴィチを自身の代理としてボヘミアに派遣した。
 さらにヨガイラとヴィタウタスは、1422年にプロイセンに侵攻し、ドイツ騎士団との戦闘を再開。しかしジギスムントからの支援が到着する前に、メルノ条約を結んで戦争を終わらせた。これにより、クライペダ/メーメルはドイツ騎士団領とされたものの、ジェマイティヤがリトアニア領として最終的に認められた(この国境線は1919年まで存続)。ただしポーランドとドイツ騎士団との対立はこの後も続くが、これはこの時ドイツ騎士団領にポモージェ/ポンメルンが残されたことが大きい。

 1423年、教皇マルティヌス5世はヨガイラとヴィタウタスに、ジグムント・コリブトヴィチをボヘミアから退去させるよう命じた。クライペダ/メーメルは獲得できなかったものの、ドイツ騎士団との国境を画定させることのできたヴィタウタスにとって、最大の関心事はルーシへの勢力拡大であり、もはやジギスムントとの敵対はあまり益がない。ヴィタウタスはジグムント・コリブトヴィチを召還した(ただしジグムント・コリブトヴィチは翌1424年に勝手に飛び出していき、再びボヘミアへ)。
 1425年、モスクワ大公ヴァシーリイ1世が死去。後を継いだヴァシーリイ2世はまだ幼児で、その摂政となったのが娘のソフィヤ・ヴィトフトヴナであった。ヴィタウタスは、言わば幼君の後見人としてモスクワに大きな影響力を及ぼす。1427年には、トヴェーリ大公ボリース・アレクサンドロヴィチリャザニ大公イヴァン・フョードロヴィチが、事実上ヴィタウタスに臣従。こうして、旧キエフ・ルーシのほぼ全域がヴィタウタスの領土ないし宗主権下に入った。

 こうしてポーランドの倍以上の広大な領土を支配下に収めると、多数抱えることとなった正教徒のルーシ貴族たちの、カトリックのポーランドに対する反発が無視できないものとなっていった。もともとリトアニア貴族には、ポーランドの下風に立たされることに対する反発が根強くあった。こういった様々な要素に、おそらく個人的野心もからんで、ヴィタウタスは «リトアニア王» の位を獲得しようと目論むようになる。西欧において王位を授けることができるのは教皇だけであり、これに大きな影響力を持つドイツ王ジギスムントにヴィタウタスは接近。
 ところがヨガイラは、依然ポモージェ/ポンメルンを巡ってドイツ騎士団と対立を続けており、これをバックアップしているジギスムントとは敵対関係が続いていた。これもあり、徐々にヴィタウタスとヨガイラとの関係が冷却化していく。
 リトアニアがポーランドから分離することはポーランドの弱体化にもつながることであり、ジギスムントはヴィタウタスの王位獲得を支持。こうして戴冠は具体化するが、1430年、戴冠式を目前にヴィタウタスは死去した。

 自身はカトリックに改宗したようだが、正教も公認し、ユダヤ商人、タタールの職人を迎え、商工業を奨励。上述のようにルーシのほぼ全土を掌握し、リトアニアの最盛期を現出した。そのため年代記では、ミンダウガスにもゲディミナスにもアルギルダスにも与えられなかった «偉大な» という添え名(現代リトアニア語で «ディディシス»)が与えられている。

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最終更新日 04 07 2012

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