リトアニア諸公

ナリマンタス

Narimantas Gediminaitis

トゥーロフ=ピンスク公 князь Туров-Пинский
ポーロツク公 князь Полоцкий

生:?
没:1348.02.02

父:リトアニア大公ゲディミナス
母:?

結婚:
  & エリザヴェータ・ヴァシリコヴナ -1345

子:

生没年分領配偶者生没年その親・肩書きその家系
母親不詳
1アレクサンドルポドーリエ
2ミハイールピンスク
3ユーリイベリズ・ホルム
4パトリケイスタロドゥーブアンナ1387-ドミートリイ・ドンスコーイリューリコヴィチ
5セミョーン

ロシア語ではナリムント Наримунт/Наримонт Гедиминович。

 おそらくゲディミナスの長男であったろう。次男とする文献もあるが、それは実在したか否かよくわからない長男(夭折したとされる)の次という意味で、現実的にはやはり長男である。

 ナリマンタスは、1316年にピンスク公になったとする文献がある。ピンスクはおそらくすでにリトアニアの勢力圏に入っていただろうから、その意味では不思議ではない。1318年頃には弟(?)アルギルダスヴィテブスク公の跡取り娘と結婚しており、そういう意味でもナリマンタスが1316年にトゥーロフ=ピンスク公領を任されていても不思議はない。ただし、だとすると1330年代にノーヴゴロドに派遣されたのが解せない。

 ノーヴゴロドは14世紀前半、モスクワ公イヴァン・カリターの覇権に激しく抵抗し、折から勢力を拡大しつつあったリトアニアに接近。このためナリマンタスは1333年に父から、ノーヴゴロド西部の宗主権を与えられ、ラードガ、オレシェク、カレリアなどを支配する。この時、正教に改宗した(洗礼名はグレバス Glebas/グレーブ Глеб)。

 1338年、ノーヴゴロド市民がナリマンタスを対スウェーデン戦のために召還するが、ナリマンタスは現れず、のみならず、オレシェクに置いていた息子アレクサンドルを呼び戻した。これは、この以前からオレシェクに息子アレクサンドルを派遣していたこと、および、この時点ではナリマンタス自身がラードガやカレリアにはいなかったことを意味する。

 1338年頃、ポーロツク主教とともにリガとの条約に調印している。このことから、この頃ナリマンタスはポーロツク公だったのではないかと考えられる。
 ただし、叔父(?)ヴァイニウスが1326年の時点でポーロツク公であり、その死亡年(あるいはポーロツク公位を辞した年)が知られていない。1342年まではヴァイニウスないしその子のリューブコがポーロツク公であったとする説もある。

 1338年頃、キプチャク・ハーン国の捕虜となる。イヴァン・カリターに買い取られ、数年間モスクワで虜囚生活を送った。

 1341年、父が死去。ナリマンタスがピンスクをもらったのは、この時、父の遺言によって、とする説もある。
 ナリマンタスの分領についてはよくわからない。上述のように、確実なのは1333年から38年までラードガ、オレシェク、カレリアなどノーヴゴロド北部を支配していたことだけである。もっともこの期間もナリマンタスは現地に不在であったのだから、別に分領があったと考えるべきだろう。通説のようにナリマンタスがゲディミナスの長男ないし年長の息子であったとすれば、1316年にトゥーロフ=ピンスクを与えられたというのは妥当だろうし、おそらくその後も一貫してピンスク公であったのだろう。その場合、ノーヴゴロド北部を委ねられたというのが解せないが、少なくともナリマンタスがノーヴゴロド北部を不在にした理由はわかる。1338年頃にポーロツク主教とともにリガとの条約に調印したのも、ポーロツク公としてではなく、父の代理としてであればあり得ないではなかろう。

 1345年、父が後継者に指名した弟ヤウヌティスが別の弟アルギルダスに追われると、サライに赴き、ジャーニー・ベクに支援を要請する。しかし拒否され、アルギルダスと講和。以後はピンスクでおとなしくしていた。

 1347年、ケーストゥティスとともにリヴォニアに侵攻。
 1348年、リトアニア軍を率いてドイツ騎士団と戦い、ストレヴァの戦いで戦死した。
 このような状況を考えてみると、アルギルダス & ケーストゥティスと和解した後は、ピンスクでもポーロツクでもなく、リトアニア本土(特にその西部)にいたのではないかと想像される。

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最終更新日 01 01 2012

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