ケーストゥティス
Kęstutis Gediminaitis
トラカイ・ジェマイティヤ公 (1338?-82)
生:1300?
没:1382.08.03/15−クレヴォ
父:リトアニア大公ゲディミナス
母:?
結婚:?
子:
名 | 生没年 | 分領 | 配偶者 | 生没年 | その親・肩書き | その家系 | |
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母親不詳 | |||||||
? | ヴァイシュヴィラス | ||||||
? | パティルガス/パトリカス? | ||||||
1 | ヴァイドタス/ヨハン? | ノヴォグルードク | |||||
2 | ブタウタス/ハインリヒ | -1380 | |||||
3 | ヴィタウタス/アレクサンダー | -1430 | 大公 | アンナ | -1418 | ||
ウリヤーニヤ | イヴァン・オリギムンドヴィチ | ゴリシャンスキイ家 | |||||
4 | タウトヴィラス/コンラート | -1390 | ノヴォグルードク | ||||
5 | ?/ジグムント | -1440 | 大公 | ||||
6 | ミクラウセ/マリヤ | -1405 | イヴァン・ミハイロヴィチ | 1357-1425 | トヴェーリ大公 | リューリク家 | |
7 | ダヌテ/オナ | -1448 | ワルシャワ公ヤヌシュ1世 | -1429 | マゾフシェ公シェモヴィト3世 | ピャスト家 | |
8 | リムガイレ/エルジュビェタ | ヘンリク | -1393 | ||||
アレクサンドル善良公 | モルドヴァ公 |
ロシア語ではケイストゥト Кейстут Гедиминович。
なお、リトアニア語の正確な発音は «キャストゥーティス» らしい。
父により古都トラカイを与えられる。1341年に父が死去した時点では、さらにグロドノとジェマイティヤ(サモギティア)を支配していた。ジェマイティヤはリトアニア西部の低地地域であり、グロドノは «黒ルテニア»の西部にあたる。すなわち、ケーストゥティスは北と東からドイツ騎士団の支配するプロイセンと対峙する地域を委ねられていたということになる。
父の死後リトアニア大公位を相続した弟ヤウヌティスと対立。1345年、ヴィリニュスに侵攻し、ヤウヌティスを捕らえるが、リトアニア大公位は兄アルギルダスに譲る。これに反発した長兄ナリマンタスとも講和。リトアニア東部とルーシはアルギルダスに委ね、ケーストゥティスは従前のように西方でリヴォニア・ドイツ両騎士団と対峙する。ふたりは終生協調してリトアニアを支配した。
1348年、ドイツ騎士団がリトアニアに侵攻。リトアニア軍はこれを迎え撃つが、ストレヴァ河畔(ネムナス/ネマン支流)の戦いで、大敗を喫する。ナリマンタスと、おそらくマントヴィダスが戦死した。この戦いについてはドイツ側の記録しか残っておらず、リトアニア軍を指揮したのが誰か、ケーストゥティスが従軍していたのかどうか、まったく不明である。しかし西方を担当していたのがケーストゥティスである以上、敗戦の責任がケーストゥティスにあったのは確かであろう。
時あたかもリヴォニア騎士団がプスコーフに侵攻。ノーヴゴロドもスウェーデンと戦っていたが、敗戦の影響かリトアニアは効果的な支援を送ることができず、プスコーフもノーヴゴロドもリトアニアの勢力圏から離脱していった。
情勢を好転させようと、ケーストゥティスは1349年に、ポーランド王カジミェシュ大王の仲介で教皇クレメンス6世との交渉を開始。ところがまさにその年、カジミェシュ大王がガーリチ=ヴォルィニに侵攻。ガーリチ=ヴォルィニではリウバルタスが征服戦を遂行中で、こうしてガーリチ=ヴォルィニを巡ってリトアニアはポーランドとの戦争に入ることになった。
教皇との交渉は当然断絶。ケーストゥティスはリウバルタスを支援して、ヴォルィニをほぼ制圧した。またドイツ騎士団とポーランド双方に対処するため、ハンガリー王ラヨシュ大王と1351年に同盟を結ぶ。
1361年には、8ヶ月間マリエンブルクで捕虜となっていた(この時はリガ近郊にまで進撃した)が、翌年脱走。
1362年、アルギルダスとともにポドーリエに侵攻。南ブグの支流シーニエ・ヴォードィ(青水)河畔にて、タタール軍を破る。これにより、アルギルダスは広大なウクライナのほぼ全域を制圧した。
1370年、ケーストゥティスはプロイセンに侵攻。
1377年、アルギルダスが死に、その子ヨガイラがその後を継ぐと、内紛が勃発。アンドレイをはじめとするヨガイラの異母兄たちがヨガイラの大公位継承に異議を唱えたが、ケーストゥティスはヨガイラを支持。
1379年、ケーストゥティスはヨガイラとともにドイツ騎士団と講和した。
1380年、ヨガイラは単独で(ケーストゥティス抜きで)リヴォニア騎士団と講和。さらにヨガイラはドイツ騎士団と反ケーストゥティス同盟を結ぶ。
1381年、ヨガイラが不在の隙を突いてヴィリニュスを占領。帰還しようとしたヨガイラを捕らえ、ケーストゥティスはリトアニア大公となった。一族から承認され、東部をも支配下に収め、ヨガイラにはクレヴォとヴィテブスクを与える。
1382年、ケーストゥティスはカリブタス討伐のためノーヴゴロド=セーヴェルスキイへ。その隙を突いて今度はヨガイラがヴィリニュスを占領。ケーストゥティスはリウバルタスとも同盟してトラカイに迫るが、ドイツ騎士団とも同盟したヨガイラと休戦し、講和交渉を開始。しかし捕らえられ、その直後に死去。ヨガイラに殺されたとも、自殺したとも言われる。