リトアニア諸公

フョードル・イヴァーノヴィチ・ムスティスラーフスキイ

Федор Иванович Мстиславский

князь
ボヤーリン боярин (1576-)

生:?
没:1622.12.16/12.26−モスクワ

父:イヴァン・フョードロヴィチ・ムスティスラーフスキイ公 (フョードル・ミハイロヴィチ・ムスティスラーフスキイ公)
母:?

結婚:?

子:

生没年分領配偶者生没年その親・肩書きその家系
母親不詳
エヴドキーヤ

ゲディミノヴィチ。正教徒。ロシア貴族。

 すでに父の生前からボヤーリンとして活躍。父は1586年に失脚して流刑に処されるが、フョードル・イヴァーノヴィチ公はそのままボヤーリンとして宮廷にとどまっている。1598年にフョードル1世が死んだ時には、すでに家格、年齢、経歴その他からボヤーリンの筆頭格であり、そのため後継ツァーリの候補に挙げられもした。
 1604年、ノーヴゴロド=セーヴェルスキイ近郊で偽ドミートリイ1世軍に敗北。しかし1605年には逆にドブルィニチにて勝利を収める。

 偽ドミートリイ1世がツァーリとなった後もボヤーリンとしてとどまるが、1606年にはヴァシーリイ・シュイスキイ公の陰謀に加わり、偽ドミートリイ1世を廃位してヴァシーリイ・シュイスキイ公をツァーリとした。ちなみに、この時もツァーリ候補としてフョードル・イヴァーノヴィチ公の名も挙げられたという。
 ヴァシーリイ・シュイスキイの下でもボロートニコフ軍との戦闘などに活躍する。
 1610年にヴァシーリイ・シュイスキイが廃位されると、フョードル・イヴァーノヴィチ公はボヤーリンたちを率いて権力を掌握。«セミボヤールシチナ»(空位期にモスクワの権力を握った7人のボヤーリン)の筆頭として、ポーランド王太子ヴワディスワフをツァーリとすることに同意。
 しかしポーランド軍がモスクワに入城すると、モスクワの実権はポーランド軍が握り、他方で地方では «第一次国民軍»、続いて «第二次国民軍» が結成され、セミボヤールシチナ、なかんずくフョードル・イヴァーノヴィチ公の出番はなくなった。

 ボリース・ゴドゥノーフの治世以来常にボヤーリンの筆頭格であり、そのためしばしばツァーリ候補に名も挙げられた。しかしどうやらかれ自身は積極的にツァーリの位を目指したわけではなさそうで、別の人間をツァーリに立てて、その下で権勢をふるうことで満足したようだ。

 かれの死でムスティスラーフスキイ公家は断絶する。

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最終更新日 30 11 2012

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